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長年学んできたヨーガと大好きなインドの話です


by preman9798
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2010年 09月 16日 ( 2 )


嬉しいこと。
今日の午前、雨の中を『ヨーガ事典』が届いた。宅急便さん、ありがとうございました。
部屋の中は、先日の『インドの叡智』の増刷の際にいただいた分もあり、本だらけになってしまいました。
両方とも早く売れるとよいのですが。

大失敗。
『ヨーガ事典』を出せることになったのは、UTLの倉持氏がBAB出版を紹介してくださったおかげです。
それなのに、「終わりに」の挨拶の中でその倉持さんのお名前を倉本さんと間違えてしまいました。
名前と数字だけは絶対に間違えてはいけないと肝に銘じていたはずなのに、一番大切な人の名前を間違えてしまいました。
倉持さん、ほんとうにほんとうにごめんなさい。


『ヨーガ事典』、UTLの受付に並んでいます。

今日、すでに青森のヨーガ・サンガティ教室に30冊を送りました。





わたしの初めてのインド・9

ハリオーム! 成瀬です。
今回もベナレスの続きです。ベナレスではちょっと恐い体験もしましたが、たいへん刺激的で面白い町でした。


●刺激的なベナレスの町
ホテルの部屋に荷物を置くと、さっそくベナレスの町に出てみました。ものすごい人の数です。広い通りから少し奥に入ると、道幅の狭い迷路のような道が続いています。狭い道の両側は同じような店構えのお土産さんやら小さな食堂やらが並んでいて、何回か道を曲がるともう完全に分からなくなってしまいます。
この迷路のような路地を歩いている途中、二度ほど死体を担架のようなものに乗せて担いでいる人たちに出会いました。死体は布で巻かれ、その上に花が飾られていました。遺族らしい人たちが、その後を続いて歩いています。きっと、ガンジス河の死体焼き場まで運んで行くのでしょう。
もう一つのお葬式のほうは、数人の人がトランペットや笛で悲しそうなメロディーを吹きながら列を組んで歩いていました。

回りのお店をのぞきながらぶらぶらと歩いていたら、牛の糞を踏んづけてしまいました。まだ新しいのか、湯気が出ています。しまった、と思いましたが、牛の糞はまったく臭くありませんでした。決して負け惜しみを言っているわけではありません。草食のためか、ほんとうに臭くないのです。インドにはこの牛糞を乾燥させ燃料にするために拾い集める人がいるくらいです。

夕食は、ホテルの近くの中華レストラン「WINFA」に。店内は薄暗く、味のほうは値段のわりにはなかなかの美味でした。
夜、再び賑やかな街中に出てみました。今日は「ディワリ祭」というインドでも最大級のお祭りで、ラクシュミーという幸運の女神をお招きするために、イルミネーションと花火とでとても賑やかです。考えてみたら、偶然とはいえ、古都ベナレスで「ディワリ祭」を迎えられるなんて、とてもラッキーでした。
昼間少し歩いた迷路のような路地を再び歩いてみましたが、昼間とはまた違い、夜は夜で裸電球がぶら下がった夜店の雰囲気がなんともいえません。
インド人がぞろぞろと歩いて行く後を何となく付いていくと、ベナレスのシンボルとも言える「ヴィシュヴァナート・テンプル」の前に出ました。ここはシヴァ神の寺院で、ご神体としてシヴァをシンボライズした金色のリンガ(男根の形をしたもの)が祀ってあるところから「ゴールデン・テンプル」とも呼ばれます。しかし、残念ながらこの寺院はヒンドゥー教徒しか入れませんので、わたしたち外国人は黄金のシヴァ・リンガを拝むことが出来ません。

若いインド人が「マニカルニカー・ガート」に案内すると寄ってきました。マニカルニカー・ガートとは死体焼き場のことで、ヒンドゥー教徒はここで焼いた灰をガンジス河に流し、より良い来世への転生を願うと言われています。観光名所のようにとらえられていますが、ヒンドゥー教徒にとっては神聖なる場所ですし、遺族にとっては身内の死体を焼くところでもあります。見世物ではありませんので、ここでの写真撮影は禁じられています。
そのマニカルニカー・ガートへ連れて行ってくれるというのです。少し興味があったので、その若者の後をついて行くことにしましたが、何回も路地を曲がっていくうちに、だんだんお店も人通りも少なくなってきました。恐くなったので、もう引き返すと言うと、「もうすぐだから」とまた歩き始めます。なんか態度や雰囲気が怪しいし、これ以上行っては危ないと感じたので、勝手に引き返してしまいました。外国人観光客やインドのおのぼりさんが集まるベナレスには、この手のインチキがとても多いのです。わたしも、あのまま若者に付いて行ったら、きっとなにかトラブルに巻き込まれたに違いありません。
数年後、ベナレスを訪れたときは「ゴールデン・テンプル」を見下ろせる場所があるからと声を掛けられ、危うくガイド料を取られそうになったこともありました。
しかし、一難去ってまた一難。怪しい若者から逃げたまでは良かったのですが、今度はホテルに帰る道が分からなくなってしまいました。「ゴールデン・テンプル」まで戻れば、何とかホテルまでの道が分かるような気がするのですが、何回も路地を曲がったので完全な迷子です。

●キールタンとの出会い
迷子になったわたしは、迷路のような路地をただ闇雲に歩き回りました。すると、ある家の窓から、今まで聴いたことのないようなメロディーが聞こえてきました。それを聞いたとたん、わたしは総毛だってその家の前から一歩も足が動かなくなってしまいました。迷子になり、音楽なんか聞いている余裕はないはずなのに、どうしても身体が動かないのです。
失礼だとは思いましたが、開け放たれた窓から部屋の中を覗くと、おじいさんが小さなおもちゃのピアノのようなオルガンのようなものを弾きながら何かを歌っています。おじいさんのすぐそばには小さな孫が坐り、その回りを家族の人たちが囲むようして坐り、歌を歌っていました。
その独特のメロディーや雰囲気に強烈なショックを受けたのです。もちろん、インドの言葉なので、どんな歌詞なのか分かりませんし、おもちゃのようなこの楽器が何と言う名前なのかも知りません。
これが、わたしとキールタンとの出会いでした。後に、シヴァーナンダ・アーシュラムに滞在したときに、そこでまたこの音楽や楽器と出会います。そして、はじめてベナレスで聞いたあの歌をキールタンと言い、おじいさんの弾いていた楽器はハーモニュームという名前であることを知ったのです。シヴァーナンダ・アーシュラムにいる間、デーヴァーナンダさんというスヴァーミーから一所懸命にキールタンを習いました。当然、日本に帰る際、ハーモニュームはわたしの荷物の一つになりました。

部屋の中を覗いているわたしを見ると、家の人が「入って来なさい」と手で合図をしてくれました。しかし、迷子状態のわたしには、一緒にキールタンを楽しむなんていう精神的余裕はありませんでした。キールタンに心を引かれながらも、さらに路地を歩きました。
「ゴールデン・テンプル」までの道を聞こうと思っても、ヒンディー語しか分からない人ばかりです。ようやく親切な老人に「ゴールデン・テンプル」まで連れて行ってもらい、何とかホテルまでの道を思い出しました。

しかし、ホテルの近くまで来ると、なんと今度は子どもが「ハッシッシ! ハッシッシ!」と言って近づいてきました。どう見ても小学生にしか見えません。「グッド・クオリティ・ハッシッシ! ピュア・ハッシッシ!」と言っています。
神々の国インドの古都ベナレスであっても、さすがにハッシッシは違法です。ちなみに、その子どもに値段を聞くと、10グラムで35ルピーと言っていました。わたしにはこの値段が高いのか安いのか分かりませんが…。
ほんとうなにが起きてもおかしくないベナレスです。

●市内観光
初日からいろいろなことがありましたが、まだベナレスの市内観光はしていません。お釈迦様が生まれる以前からある古い町なので、見所はたくさんあるはずです。

翌日(11日)、ホテルでチャーターしたバタバタ(オート・リキシャ)で市内観光をしました。まずは朝早く、「ダシャーシュヴァメード・ガート」に行き沐浴風景を見ました。ここはよくテレビや写真などで観る、ガンジス河にいくつかあるガートの中でも最も有名なガートです。ガートとは沐浴しやすいように、河原から河の中にかけて作られた階段状の施設です。ガンジス河の流れているところでは、ベナレスに限らずこのガートが必ず作られています。
昨日が「ディワリ祭」だったせいでしょうか、ガートではものすごい数の人が沐浴をしています。
わたしも三回目のベナレスで初めて沐浴をしましたが、初めてのこの旅ではさすがに沐浴をする勇気はありませんでした。
昨夜見られなかった「マニカルニカー・ガート」にも連れて行ってもらいました。まだ朝が早かったせいか、死体を焼く現場は見られませんでしたが、そのガートの地面は黒く焦げていました。

それから、寺院の回りにお猿がたくさんいる通称「モンキー・テンプル」やヴァーラーナスィー大学、「サールナート」など、ベナレスの観光スポットを訪れました。
サールナートは、ルンビニー、ブッダ・ガヤ、クシナガラーの四大仏跡の一つで、この地でお釈迦様が初めて説法をされたのだと思うと、ちょっと感傷的になりました。お釈迦様はどういう顔の方で、どういうお声だったのでしょう。サールナートには仏教のお寺があり、その寺院の壁には日本人画家によるお釈迦様の生涯が描かれています。その寺院も回りのお庭もとてもきれいでした。総じて、仏教の遺跡や寺院はヒンドゥーの寺院と比べるとどこも清潔でした。

ドライバーがスピード狂なのか、わたしを乗せたバタバタがクラクションを鳴らしっぱなしで、ものすごいスピードで町の中を走ります。途中、人と接触しても、ドライバーのほうがその人を睨みつけては罵声を浴びせます。日本では考えられません。インドでは、車に乗っている人のほうが「お金持ち=偉い」という感覚があるようです。とにかくインドでは車に気をつけなくてはなりません。道を横断するにも車は止まってなどくれません。気をつけないとほんとうに轢かれてしまいます。

夜はシタールを聴きに行くつもりが、シタールを教えている学校に行ってしまいました。ペルー人とイタリア人がインド人の先生に付いて習っていました。さすがベナレス、世界中からインド音楽を学びに来るのでしょう。日本人の女性もいました。聞けば、ここは学校なので演奏は聞かせてもらえないとのこと。その代わり、朝の8時半からヴァーラーナスィー大学で演奏があるということを教えてくれました。

翌朝、ヴァーラーナスィー大学に行くと、たしかに演奏をしていました。会場や講堂での演奏会というよりは、毎日の祭礼のような雰囲気でした。考えてみれば、朝の8時半から演奏会な開催するはずがありません。すでに周りを取り囲むようにして何人かの人が坐って聴いています。よく見ると、シタールを演奏しているのは昨日のシタールの学校の先生でした。わたしの顔を覚えていてくれて、手招きで隣に坐れと合図してくれました。
インドではよくこのように、ヨーガの先生なども、ポンポンと床を叩くようにして自分の隣に坐れと合図してくれることがあります。それはとても名誉なことなのですが、日本人はそのせっかくのご好意が分からず、へんに遠慮して後ろの方に坐ったりしてしまいます。そういうわたしも、照れくささもあってか、後ろのほうで遠慮して演奏に耳を傾けました。
by preman9798 | 2010-09-16 20:52

タイトルなし

水曜日(15日)はいつもなら朝早く八雲教室に行くのですが、会場である「八雲住区センター」の都合がつかず休講になりました。
水曜日の朝ゆっくりできたのは久しぶりです。
と言って、特別に何かをするわけでもなく、資料をぼんやり見つめている間にお昼になってしまいました。
夜は、代々木UTLのクラス。
UTLの4階の受付には『ヨーガ事典』が見本として置かれています。ここで学ぶ皆さんが関心を持ってくださるとよいのですが…。
この日のクラスは、新しく出る『ヨーガ事典』を手伝ってくれたK.Hさんが参加してくださいました。




わたしの初めてのインド・8

ハリオーム! 成瀬です。
今回はデリーからベナレス(ヴァーラーナスィー、バナーラス)に行ったときに、さまざま体験したことの話です。ベナレスはいろいろな意味でとても刺激的な町でした。


●デリーにて
11月9日(水)。昨日のアーグラー観光の疲れが多少残っていたのか、少し寝坊してしまいました。例によって部屋にシーツを敷き、一時間ほどアーサナ。
朝食はYMCAの中にあるレストランへ。白人が多いせいか、メニューはインドのものではなく洋食がメインです。ほんとうはチャイが飲みたかったのですが、トーストとコーヒーを注文しました。考えてみれば、インドに来て初めてのコーヒーかも知れません。
ここで偶然、一緒にインドに来た仲間の一人に会いました。彼は仲間たちと一緒にラジネーシのアーシュラムに行ったと記憶していたのですが、今はみんなと別れて独りでインドを歩いていると言っていました。

午前中に、国内線の「インディアン・エアラインズ」のオフィスに行き、明日(10日)のベナレス行きのチケットを買いました。今はどうなっているか分かりませんが、当時は外国人が国内線のチケットを買うときは米ドルで支払わなくてはなりませんでした。28ドル、当時のレートだと7000円強。インドの旅は始まったばかり、ちょっと痛い出費です。
午後は博物館に。入場料はたったの25パイサ、日本円で10円もしません。館内にはヴェーダ時代の神々の石像がたくさん飾られていましたが、どうもわたしにはボンベイで観た「プリンス・オブ・ウェールズ博物館」のほうがずっと面白く感じました。確か、カメラは入口で預けなくてはならなかったと記憶しています。

博物館を出て、オールド・デリーのチャンドニー・チョーク通りへ。チャンドニー・チョークに関してはすでにお話しましたが、とてもインド的で面白いところです。広い通りには、車と荷車と屋台とお店、それにも増して人、人、人でごった返して、まともに前に進めないくらいです。
ここには「ラール・キラー」というムガル帝国の王様のお城があり、そのお城に向って真っ直ぐに伸びている広い道がチャンドニー・チョークなのです。
広いチャンドニー・チョークの両側には実にさまざまなお店が並んでいますが、これらは外国人用のお土産店というよりも、インドの人たちの日常品を売っているお店です。ちなみに、その後インドに行くたびに、わたしはここでショールやお香や神様の絵などのお土産を買っていました。
この通りにはヒンドゥー教の寺院・マンディルはもちろん、イスラーム教のお祈りの場・モスク、シク教の寺院・ドヴァーラーなどがありますが、それぞれの信者たちの間での争いのようなものはまったく見られませんでした。

シク教の寺院の入口には鉄砲を持ったガード兵(?)が立っていて、最初はちょっと驚きましたが、寺院の中には誰でも入ることができます。靴やサンダルを脱いだら下足番に預け、水で足を洗ってから中に入ります。
宗教上の戒律なのでしょうか、中に入るときは必ずハンカチやタオルで髪を隠さなくてはなりません。
楽器を使って神やグルを讃える宗教歌を歌うのが、シク教の特徴の一つです。このチャンドニー・チョークにある寺院でもキールタンが行なわれていました。ただ、そのときはまだわたし自身、キールタンという名前もハーモニュームという楽器もまったく知りませんでしたが…。
シク教の寺院など珍しいので、ぜひオールド・デリーに行ったら訪れてみてください。シク教の男の人は必ずきれいな色のターバンを被り、戒律上髭も剃りません。ヒンドゥー教と比べると肉を食べる人が多いのか体格もよく、またインド社会の中でも割合と経済的に裕福な人が多いようです。シク教の聖地が北インドの「アムリト・サル(アムリツァール)」にあるせいでしょぅか、南インドではシク教徒の人をほとんど見かけませんでした。

夕食は、ニューデリーに戻り、「ジャンパト・ホテル」の中の中華レストランに入りました。
今は超高級ホテルなどに行くと日本食レストランがあるようですが、昔のインドにはほとんど日本食レストランはありませんでした。
長い旅行で、どうしてもスパイス料理に飽きて日本食が恋しくなると、よく中華料理店を探しました。インドの各地に華僑がいるからでしょうか、少し大きな町には必ずと言って良いほど、中華料理店があります。日本食そのものではありませんが、焼きそばやチャーハンなど、比較的日本食に近い味が楽しめるからです。
「チョウメン」というのが焼きそばで、チャーハンは「フライド・ライス」といいます。お腹がすいていたわたしは「エッグ・チョウメン」と「ヴェジタブル・フライド・ライス」とサラダを頼みました。要するに卵が入った焼きそばと野菜のチャーハンとサラダです。味はともかく、その量の多さには驚かされました。前田先生や「アーナンダ・ニケータン」を思い出し、残してはもったいないとがんばったのですが、どうしても食べ切れませんでした。
「ジャンパト・ホテル」からYMCAまでは歩いて帰れる距離です。明日はいよいよベナレスですが、夜、少し喉が痛みました。埃だらけの町を歩いたツケが回ってきたのでしょうか、あるいは少しばかりインドに慣れて気のゆるみが出たのでしょうか。

一枚の便箋を使ってヨーガ仲間数人に宛て、手紙を書きました。インドに来る前に、わたしがヨーガを教えていた「現代の寺子屋塾・市ヶ谷校」の生徒たちです。生徒とはいえ、当時20代半ばのわたしにとっては、みんな年齢はわたしよりも上の方たちです。わたしが居ない間は、古い生徒が代講してくれているはずです。きっと、みんな心配してくれていると思います。生徒の中には、わたしがインドに行くと聞いて、いろいろと薬を持たせてくれた看護婦さんもいます。

●デリーからベナレスへ
11月10日(木)、朝5時15分に起きてしまいました。念のため頼んでおいたモーニング・コールの前に起きてしまいました。
YMCAをチェック・アウトし、国内線の空港へ。国際線と国内線とでは空港が異なるので気をつけなくてはいけません。
朝7時発のベナレス行きには、日本人の団体が乗っていました。おそらく、ベナレスやサールナートやブッダ・ガヤなどの仏跡でも巡るツアーなのでしょう。年配の方が多かったので、熱心な仏教の信者さんたちなのかも知れません。わたしは独りでインドを回っていることを話すと、なぜだかおばあさんに「偉いわねぇ」と褒められてしまいました。わたしも何とはなしに少し得意になってしまいました。

デリーからわずか1時間半くらいで着いたベナレスの空港は、何もない原っぱの中にありました。飛行機のタラップを降りると、空港ビルまで原っぱの中を歩いて行かなくてはなりません。
インドのどこの観光地でもそうですが、タクシーやリキシャの運転手は強引な客引きで有名です。特に、ここベナレスやアーグラーなどの世界的観光地は要注意です。
空港ビルともいえないような建物を出ると、タクシーやリキシャのおじさんたちがワーッと寄ってきては市内まで連れて行こうとします。その中の一人がわたしの手からリュックを奪うと、自分のタクシーのほうに連れて行こうとしました。わたしはそのドライバーから慌ててリュックをひったくると、睨みつけてやりました。しかし、そんなことでひるむようなドライバーなど一人もいません。考えてみれば、みんな生きることに必死なのです。
タクシーやバタバタやリキシャのドライバーのほとんどが、車は親方や会社に高い料金を出して借りていて、一所懸命働いてもあまり手元に残らないという話を聞きます。彼らが毎日運転している車は、自分個人の持ち物ではないようなのです。その上、地方から出稼ぎに来ているリキシャ・ワーラー(「リキシャの人」の意味)たちは家族に仕送りをしなくてならないので、寝るときはあの狭いリキシャの座席の上で寝て、少しでも節約するのだと聞きます。
しかも、人の大勢集まる観光地は、その分タクシーやリキシャも多いので競争が激しいのです。遠慮なんかしていては、お客を取ることができないので、どうしても強引な手段になってしまうのでしょう。
インドでは、タクシーに限らずバタバタもリキシャも、車はすべて値段交渉をしなくてはなりません。タクシーにはメーターは付いていますがほとんど使うことはなく、すべて交渉で決めます。初めて行く場所などは距離も分からないので、今交渉しているその料金が高いのか安いのかも分かりません。たくましいタクシー・ドライバーのおじさんたちとの駆引きは、それだけで疲れてしまいます。
日本円に直せばたった数円の値段交渉のために、リキシャのドライバー相手に意地を張り、結局は重たいリュックを背負って、何十分も歩くはめになったこともありました。

●ベナレスでの初日
しつこいタクシーやリキシャたちを無視し、市内のインド政府観光局までバスで行くことにしました。わずか5ルピー。タクシーだったら何倍も取られるところです。観光局で市内マップを貰い、比較的安くて安心なツーリスト・バンガローを紹介してもらいました。
バンガローと言っても日本のキャンプ場にあるような、テントに毛が生えたような山小屋ではありません。インドのバンガローは立派な宿泊施設です。YMCA、ユース・ホステル、ツーリスト・バンガローの三つが、低料金で比較的清潔な、貧乏旅行者向けの宿泊施設ベスト・スリーです。
しかし、せっかく紹介してくれたツーリスト・バンガローには行けませんでした。わたしの乗ったリキシャのおじさんが、あそこはヒッピーばっかりでみんなハッシッシ(大麻の一種)を吸っていると言うのです。インドに慣れると、こんなリキシャのおじさんの言うデマなどに耳を傾けなくなりますが、まだまだ経験不足だったわたしは親切に忠告してくれたのだと思い、ツーリスト・バンガローをあきらめ、おじさんの知っているというホテルに行くことにしました。
考えてみたら、政府系のツーリスト・バンガローなんかでハッシッシなんか吸うわけがないのですが、そのときはまんまとおじさんの術にはまってしまいました。これでおじさんはそのホテルから少しマージンがもらえるのです。
インドを旅行している間は、こういうことの繰り返しでした。でも、こういう経験や失敗を繰り返していくうちに、自然とインドのいろいろなことを覚えていったような気がします。これが最初から情報に頼った旅行や、添乗員さん付きの安全な旅行とは違うところなのだと思います。
自分でレストランを見つけなければ、お腹がすいていても何も食べることができません。自分でホテルを探さなければ、疲れた身体を休めることもできません。だからこそ、30年も経った今でも旅行の細部にわたって覚えているのでしょう。

リキシャのおじさんが連れて行ってくれたのは「アジャイ・ホテル」という、市内の繁華街の中にあるインド式のちょっと汚いホテルでした。部屋は20~65ルピー。65ルピーの部屋はエアコン付きです。すぐ近くに「WINFA」という中華レストランがあります。
ホテルに泊まるときは、必ず部屋を見て、お湯が出るかどうか、トイレの流れ具合はどうかなどをチェックしなくてはなりません。
わたしはちょっと贅沢をして、二階のシャワー・トイレ付きで30ルピーの部屋にしました。30ルピーも払ったのですから、ぬるいけれどちゃんとお湯も出ます。インド式ホテルなので、トイレもインド式、屈んで用を足すいわゆる和式タイプです。通常トイレット・ペーパーのあるところに水道の蛇口と容器があり、水を使って処理します。
デリーで泊まったYMCAには白人が多いせいか、洋式とインド式の二通りのトイレがありましたが、インドでわたしが泊まったホテルのほとんどがこのインド式トイレでした。
by preman9798 | 2010-09-16 07:54