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長年学んできたヨーガと大好きなインドの話です


by preman9798
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青森は暑かった

3、4日の土日、青森に行きました。
八戸まで新幹線で行き、特急に乗り換えます。
ヨーガ・サンガティ青森教室の勉強会のためです。
教室は朝と夜の二回あるのですが、夜の教室が終わり、
皆さんと懇親会をすると、もう帰りの新幹線はありません。
宿泊することになります。

涼しいと思っていた青森ですが、以外と暑く、東京とさほど変わりありません。
それでも人が少なく、緑の多い青森は気持ちよかった。





わたしの初めてのインド・3

ハリオーム! 成瀬です。
今回は、インドに着いた翌日、11月3日の話です。ローナワラの「アナン・ニケータン」と前田行貴先生とお会いするまでのことを書きたいと思います。

●ローナワラ
ボンベイから約三時間。ローナワラの町は高原にあり、夏の暑いシーズンにはボンベイから避暑に来る人もいます。
ローナワラの駅は素朴で何もない田舎の駅でした。インドの田舎の駅ならばどこもそうですが、改札があってもみんな勝手にホームから線路に降りて駅構内を出入りします。
めったに電車が来ないので、山羊や牛が駅の中や線路を歩きながら、乗客が投げ捨てたバナナの皮やピーナッツの皮などを拾って食べています。
こんな田舎まで来ると、日本人が珍しいのか遠慮のない視線でジロジロ見られます。屋台でチャイなどを飲んでいると物珍しさからか、いつの間にか周りをグルッと囲まれていたということもありました。
中には、他に席が空いているのにも関わらず、人のまん前に坐ってインド人のあの大きな眼で瞬きもせずジーッと見つめる人もいます。初めのうちは、腹が立ったのでこちらもジーッとにらみ返していました。
好奇心と珍しさとからで、決して悪気があるわけではないのでしょうが、しばらくして慣れるまではこの視線がとても嫌でした。
集まってきた人たちの中から、「ブータン」「ネパーリー」というひそひそ声が聞こえてきます。きっとわたしのことを言っているのでしょう。すると、勇気のあるオジサンが周りのインド人を代表するかのように聞いてきました。「ジャパニー? ネパーリー?」と。「ジャパニーズ」と答えると、わたしの腕時計を指して「セイコー?」。リュックを指して「ハウマッチ?」。オジサンはわたしが答えたことを、いちいち周りの人に説明しているようでした。

前田先生の住んでいる「アナン・ニケータン」までは、ここからバスに乗り換えなくてはなりません。鉄道のローナワラ駅からバス・ターミナルまでは、日本でインド人のアショックさんに描いてもらった地図をたよりに歩きました。10分ほど歩いたでしょうか、蒸し暑いのと背負っているリュックが重いのとで、全身から汗が流れ落ちるようでした。
バス・ターミナルといっても、ただの空き地におんぼろバスが2、3台停まっているだけです。空き地の隅に屋根があるだけの待合所があり、中に小さな食堂と売店がありました。売店にはあまり美味しそうには見えないお菓子やほこりを被った雑誌が売られていました。
「アナン・ニケータン」へ行くにはアンボーナ・ヴィレッジ行きのバスに乗り、1、2、時間かかると聞いていました。事務所のようなところで聞くと、アンボーナ・ヴィレッジ行きは一日に二本しか出ず、次のバスは12時に出るとのこと。時計を見ると、まだ二時間もあります。
何もないところで時間をつぶすのは退屈ですが、荷物があるのでどこか散歩に行くことも出来ません。

汗をかいたので「リムカ」という炭酸飲料を飲みました。インドではこの「リムカ」や「サムアップ」という炭酸飲料をよく飲みました。現在のようにペットボトル入りの飲み水はありませんでしたので、暑いときはチャイよりも、よくこの炭酸飲料のお世話になりました。
小さな屋台で梨のようなリンゴのような、見たことのない果物を売っていたので、試しに買ってみましたが大味でおいしくありません。子どもがそれをじっと見ていたので、残りをあげてしまいました。
インドではよくこういう経験をしました。わたしが何かを食べていると、裸足の子どもがじっとこちらを見ていたりします。お腹がすいているに違いありません。あの大きな目でじっと見られたら、普通の神経を持った日本人だったら、その子の前でそれ以上食べることなどできません。

●アナン・ニケータン
それでも定刻に発車したバスは、しばらくするとすごいエンジン音と煙を出しながら山を登り始めました。閉まっている窓は開かず、開いている窓は閉まらないのがインドのバスです。外からすごい埃が入ってきて、荷物や座席が埃で白っぽくなってしまいました。
11月は乾季なので雨はほとんど降らず、舗装されていない道路はたいへんな埃なのです。喉が痛くなりそうになったので、ハンカチをマスク代わりにしました。
バスに乗る前に運転手に「アナン・ニケータン! アナン・ニケータン! ジャパニーズ、ドクター マエダ!」と何回も念を押しておきました。
日本の路線バスはすっかりワンマン・バスになってしまいましたが、インドでは今でも車内に車掌さんがいて切符を売っています。ただ、昔の日本と違ってインドではすべて男の車掌さんですが。

埃だらけになりながら山の中を一時間ほど走ると、細いわき道のあるところでバスが止まりました。もちろんバス停などありません。
運転手はわたしの方を見て「アナン・ニケータン」と言いました。顔は、ここで降りろと言っています。
何もない山の中にわたしを降ろすと、バスはまた煙を吐きながら行ってしまいました。回りにはお店も民家もなければ、だれも人はいません。一瞬、山の中に置き去りにされたと思いました。「ああ…、山賊や人さらいが出てくるかも知れない…」。ボンベイに着いてから、ずっとマイナス思考は止まりません。二回目の「インドになんか来るんじゃなかった…」です。

きっとこのわき道を進んで行けば良いのだと思い、重いリュクを背負うと歩き始めました。
ここに来るバスの中で、わたしはまだお会いしたことのない前田先生や「アナン・ニケータン」を想像しました。
前田先生はとても有名な立派な方なのだから、きっと大きな家に住み、使用人や学生がたくさんいて、もしかしたら畳の部屋や日本のお風呂もあるかも知れない。冷蔵庫には冷たいビールやジュースが並んでいるに違いないと。
一度思い込んでしまうと、頭の中はそのイメージで一杯になり、現実がみえなくなります。後々まで、わたしが勝手に思い込んだお屋敷のような「アナン・ニケータン」と、現実の山小屋のような「アナン・ニケータン」とのギャップはなかなか埋まりませんでした。

冷たいビールの歓待を想像しながらわき道を歩き始めると、道の奥の方から日本語が聞こえてきました「成瀬さんですか! 日本からいらした成瀬さんですか!」と。
わたしも大きな声で言いました「はい、成瀬です! 前田先生ですか!」。
声の聞こえた方を見ると、日に焼けた、半ズボンをはいた上半身裸の人がこちらに向って駆け出してきます。それがわたしと前田先生との出逢いでした。先生はわたしを出迎えに来てくださったのです。
当時、前田先生は50歳代だったと思いますが、その裸の上半身も半ズボンから出ている脚も、ものすごい筋肉でした。肉体労働で鍛え上げられたということが一目で分かりました。おまけに髪は黒々としていて白髪など一本もありません。
わたしがこの日に来るということは、前田先生に会えとアドヴァイスしてくれたヨーガ仲間のNさんが手紙を出してくれていたのです。

後に「アナン・ニケータン」で生活するようになってわかったのですが、おんぼろバスはすごい音を立てて山道を走るので、その音が止んだときは、そこでだれかが乗り降りしたという合図になるのです。バス停が離れていても、ちゃんと誰かが乗り降りしたということが分かるのです。

前田先生に案内されたのはとても小さな小屋でした。回りは石で積み重ねられていて、まるで山小屋のような作りです。
そこで二人の男性を紹介されました。一人は久保さんという鹿児島出身のお坊さんで、わたしより10歳くらい年上でしょうか。
もう一人はインド人のカシナッツ・タクサンデーという、わたしと同年代の青年です。「カシューナッツがたくさんで」と覚えてくださいと、上手に日本語で挨拶されました。彼は前田先生のお世話で、日本の豊橋で何年間か自動車のことを学んだということでした。
二人ともここで「アナン・ニータン」のマンディル(寺院)建設の仕事を手伝っています。
先生のご家族は、お子さんの学校の事情もあり、西インドのゴアにいるということでした。
わたしはNさんから預かってきた荷物を差し出しました。包帯、絆創膏、さまざまな薬、醤油などなど。薬は回りの部落の人々を治療するためのものでした。実際、わたしが「アナン・ニケータン」に滞在している間にも、村人が治療に訪れることがありました。
また、お醤油の一滴は血の一滴だといって、とても大切にしていました。当時、日本のお醤油はなかなか手に入らない貴重品だったのです。
by preman9798 | 2010-09-05 12:37