長年学んできたヨーガと大好きなインドの話です


by preman9798
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昨夜は「代々木八幡区民会館」でヨーガ・クラス。
ここでとんでもない間違いをしてしまいました。
クラスの後、数人の仲間と久しぶりで川崎あき子さんと合うことになっていて、
そのためにクラスの開始時間を早くしたのです。
それをすっかり忘れていつもの時間に…。
いつもより30分も短いクラスになってしまいました。
クラスに遅れるなんて、長いヨーガ生活の間で初めてのことかも知れません。

そして、久しぶりに代々木八幡のインド料理店「ダージリン」に。
インドで川崎さんにお世話になった人たちが集まってくれました。
大々的なものではなく、プライベートなこじんまりとした集まりです。
インド料理を食べながら、なんとお店の中でキールタン!

とても楽しいキールタンの夜でした。
ありがとうございました。






わたしの初めてのインド・24

アーシュラムの生活に少しずつ慣れてきました。Oさんとわたしに加え、ローナワラから井上先生と森さんが来て、アーシュラムも日本人で賑やかになりました。


●アーシュラムでの生活
12月21日。
昨夜遅く井上先生がアーシュラムに到着し、わたしの部屋に泊まりました。一緒に来た森さんは女性なので、どこか他の部屋に泊めてもらったようです。もしかしたら、Oさんの部屋かも知れません。
5時ころに起きて、井上先生と一緒にアーサナのクラスに。12月ともなるとリシケーシも寒いことは寒いのですが、井上先生がものすごく厚着なのには驚きました。先生はもともとあまり身体が丈夫ではないようで、そのためにヨーガを行なっているのかも知れません。
アーサナのクラスは西欧人が多く、日本人はOさん、井上先生、わたしの三人だけです。アーサナはダイナミックでスピードがあり、Oさんや井上先生にとっては少しハードだったかも知れません。
アーサナの後、朝食に行ったのですが、なぜか今日はチャイしか出ませんでした。

今日は「ギーター オブ アニバーサリ」という特別な日ということで、アーシュラムのいつものプログラムとは異なります。ギーターと名前が付いているところから察すると、『バガヴァッド・ギーター』に関係する記念日なのでしょう。
いつもの9時半からのシャンカラーナンダさんの部屋での講義も今日は休講に。その代わり、9時からバジャン・ホールでギーターの朗読がありました。
『バガヴァッド・ギーター』は、今でこそたいへん関心がありますが、当時のわたしはギーターの朗読やヒンディー語混じりの講義を聴き続けるレベルにはありませんでした。途中でバジャン・ホールを抜け出してガンジス河のほとりに行き、ぼんやりと坐っては川の流れを見つめていました。

途中、森さんと会いました。ローナワラ以来の再会です。井上先生と一緒に昨夜遅くリシケーシに着いたということなど少し話をしました。近くのお店でチャイを飲んでから、昼食を食べにダイニング・ホールへ。最初の食事に間に合わなかったので二回目の食事に。
アーシュラムの昼食は、仕事や何かの事情で最初の昼食が食べられなかった人のために、30分ほど後に二回目の食事があるのです。
Oさんや井上先生は一回目の食事を摂ったようですが、井上先生はアーシュラムの食事は辛すぎてあまり食べられなかったということでした。
たしかにローナワラのカイヴァリャダーマの食事と比べると、シヴァーナンダ・アーシュラムの味のほうが、スパイスが効いているかも知れません。
しかし、どちらかというと濃い目の味が好きなわたしにとってはカイヴァリャダーマの味付けは病人食のようで物足りませんでした。その点、シヴァーナンダ・アーシュラムの味付けはたいへん気に入っています。

昼食後、井上先生と森さんがアーシュラムから部屋を貸してもらうことに。井上先生はわたしの隣の部屋に、森さんは少し離れた建物のようです。
井上先生の荷物の整理が終わったので、今度は森さんの部屋に行き荷物を置き、三人でチャイでも飲もうということになりました。
森さんの部屋は、お湯をもらいに行く建物の2階です。この建物はアーシュラムの中心的な施設から少し離れていて、一般の人の住居も近くにあり、あまり環境が良いとは言えません。
そして、三人で近くの茶店でチャイを飲んでいるほんの15分程度の間に、とんでもないことが起ってしまいました。
森さんが部屋に荷物を置き、チャイを飲みに行ったほんのわずかな時間だったのに、部屋に戻ったら鍵が壊されていて貴重品の入ったバッグが盗まれていたのです。
これにはわたしや井上先生もびっくりしました。ほんの十数分の間です。たしかに森さんが部屋の鍵を掛けたのをわたしも井上先生もしっかりと見ていたのですから…。しかも用心深く、二つも鍵を掛けたのを知っています。
わたしたちがチャイを飲みに誘わなければ、こんなことにならなかったかも知れません。嫌な気持ちです。きっとだれかが最初から目をつけていて、わたしたちの後をつけてきたのでしょう。そうでなければ、ほんのわずかな時間で鍵を壊し、貴重品を盗んでいくなんて出来ません。

盗まれたカバンの中にはパスポートやカメラやトラベラーズ・チェックや現金など、貴重品がすべて入っていたようです。昨夜リシケーシに着いて、まだ一日も経っていないのにほんとうに気の毒です。それに、少し生意気なところがあるとはいえ、まだ二十歳そこそこの女の子です。

アーシュラムの関係の人やシャンカールなどが来て、壊された鍵を見たり部屋の中を調べたりしましたが、もうどうしようもありません。
森さんはガッカリするやらふてくさるやらで、取り付く島もありません。英語の堪能な井上先生がアーシュラムの人たちと交渉に当たってくれました。
ちょうどこのときはプレジデントのスヴァーミー・チダーナンダは外遊中で、アーシュラムには居ませんでした。わたしたちはバイス・プレジデントのマドヴァーナンダさんに会い、いろいろと手続きをお願いしました。
とりあえずはトラベラーズ・チェックの取り消しです。森さんがチェックの番号を控えていたということで、これは銀行に電話をして取り消すことができました。
今でこそインド中どこにでも電話があり携帯電話も普及していますが、当時は電話などほとんどなく、アーシュラムだったからこそ手続きがスムーズに行ったのだと思います。
次にはパスポートの再発行です。これらのことは、井上先生がすべて英語で交渉して手続きを取ってくれました。カメラや現金はあきらめるしかありません。現金は400ドルもあったそうで、トラベラーズ・チェックの220ドルと合わせるとたいへんな金額を盗まれたことになります。いくら物価の安いインドでも、ある程度のお金は必要です。わずかなルピーしか残っていない森さんのためにわたしたちはカンパをすることにしました。

後から聞くと、昨夜遅くアーシュラムに着いたとき、やはり日本語のできるシヴァシャンカラーナンダさんがリセプション・オフィスに呼ばれたようで、そのときに大事なものはアーシュラムに預けるようにと言われたそうです。それなのに森さんは自分で持っていたために、結果的にたいへんなことになってしまいました。しかし、アーシュラムでこんなことになるなんて誰も想像すらしません。森さんだけを責められません。
昔と比べるとリシケーシも物騒になり、泥棒もたくさんいるようです。スヴァーミーたちも講演などでアーシュラムを出るときは、その間必ずだれかに部屋に泊まっていてもらうということです。1977年当時でそうなのですから、今日ではなおさら注意が必要です。リシケーシといえども安心はできません。アーシュラムといえども注意を怠ってはいけません。
その後も、警察が来ていろいろ調べたそうです。

森さんは別の部屋をもらうことになりました。そういえば、ローナワラにいるときに森さんに貸した『インド・ネパール 精神世界の旅』と、生徒が日本から送ってくれた情報も一緒に盗まれてしまったのか心配になりましたが、今の状況では森さんにそんなことは聞けません。

森さんの盗難の話はあっという間にアーシュラム中に伝わってしまい、会う人ごとに、「盗難にあった女の子はどうしている」とか、「お前も気をつけろ」などといわれます。中にはわたしの顔をじっと見て行く人もいます。

Oさんは、森さんのことを素直な良い娘だけれど少し年上の人を軽んじている、と言っていました。たしかに彼女は年上から一方的に何かを言われるのを嫌う傾向はあるかもしれません。
実は森さんが最初にアーシュラムからもらった部屋は建物の1階だったのですが、そこが嫌で2階に変えてもらったということでした。それを聞いたOさんは、アーシュラムでそんな我を出したら神様から見放されてしまうといっていました。
しかし、こんなことを直接森さんに言ったら大変なことになりそうです。

夕食後、Oさんの部屋で霊のことや前世のことなどを話しました。わたしも自分の前世や魂の傾向を見てくれと言ったところ、「興味半分の人はお断りです」、と言われてしまいました。
Oさんの話では、佐保田先生は、来世はインドに生まれ、宗教改革のようなことをされるということでした。そして、あと○回生まれ変わった後、神の世界に住むということです。
また、Oさん自身はあと○回生まれ変わった後、肉体を持たなくなると言っていました。
Oさんが言うには、その人の背後霊ではなく背後神を見るのだそうで、佐保田先生には龍神、井上先生には釈尊の弟子であり従者の阿難尊者が付いているということです。また、藤田鳳子先生にも龍神が付いているとも言っていました。
このとき、Oさんはわたしの前世や魂は見てくれませんでしたが後で見てくれたようで、その結果を手紙に書いてくれました。その手紙は今でもわたしの手元にあります。

盗難にあったショックのせいか、森さんは2、3日リシケーシに居てからローナワラに戻ると言い出しました。
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by preman9798 | 2011-01-29 19:52 | Comments(0)

1月24日

家族が「気胸」という病気で入院してしまった。
肺から空気が漏れて胸腔に入り、肺を圧迫してしまうそうだ。
その結果胸が苦しくなったり痛んだするとのこと。
昨日、胸腔から空気を抜くという処置をしました。

1時から代々木UTLで『インドの叡智』の勉強会。
第3部の二回目の授業でした。
サティヤーナンダさんのグルについての講演録を読み、
インドの写真やスヴァーミーたちの写真をお見せしました。
古いものは最初にインド行った1977年のときの写真も。
写真の中のわたしも若い!

あと6回(3月7日)でこの第1回目の勉強会も終了となり、
2回目は4月からスタートする予定です。
一人でも多くの人が参加してくださるとうれしいです。
この授業はヨーガという広大な「森」全体をみる勉強です。
その後で、『ギーター』や『ヨーガ・スートラ』などの教典や、
アーユル・ヴェーダなどの木々の一本ずつを学んでほしいと思います。





わたしの初めてのインド・23

アーシュラムでの生活の続きです。
今でこそリシケーシを歩くと大勢の日本人に出会いますが、当時はほとんど見かけませんでした。アーシュラム周辺も今のようにお土産屋さんやレストランはなく、素朴な雰囲気の聖地でした。


●アーシュラムでの生活
12月19日の続きです。
スヴァーミー・クリシュナーナンダにお会いした後、Oさんと裏山にある寺院に行ってみることに。古い寺院の多いリシケーシにしては、比較的新しい建物のような気がしました。寺院の中は広くがらんとしていて、プージャー(供儀、祭祀)をするバラモンの姿もありません。
近所の子どもなのでしょうか、6歳くらいの女の子が弟を抱っこして近寄ってきました。二人とも裸足です。女の子の髪はボサボサで埃だらけ、弟も裸で、正直見た目は清潔とはいえません。しかし、その子たちの笑顔の可愛いこと、ほんとうに心が洗われる思いです。物乞いではないので何かをくれとは言いませんが、あまり可愛いので写真を取らせてもらい、お小遣いに50パイサずつ上げました。
Oさんは祭壇の前で一所懸命にお祈りをしています。中央に祀ってあったヴィシュヌ神の像が強い(霊力がある?)と言っていました。

裏山の寺院を出て、「マドラス・カフェ」というお店に。「マドラス・カフェ」はインドに来る前に、仲間から教えてもらったレストランで、アーシュラムの近くにあります。
レストランらしいレストランがない地域で、外国人も入れるようなこぎれいな作りになっています。実際、当時もお客のほとんどが外国人でした。
そして、このお店はマドラスという名前が付いている通り、北インドでは珍しく南のインド料理が食べられるのです。わたしもこの店でよく南インドを旅行したときに食べたマサラ・ドーサやイディリやウタッパンを食べました。
この「マドラス・カフェ」でライスをもらい、Oさんが京都から持ってきたこぶの佃煮で日本食を食べようと思ったのですが、残念ながら白米はないとのこと。
仕方がないので、昨日わたしが行った、トンガ・スタンドの広場にある小さなお店が並んでいる長屋のような食堂の「ナーラーヤン」へ行ってみることに。
「マドラス・カフェ」とは比べ物にならないくらい粗末な作りの、インドならばどこにでもある茶店兼食堂です。ここでサモサと野菜の天ぷらパコラとチャイを食べました。サモサは揚げたてだったので、とても美味しかった。ライスはあるかと訊くと、アールー・ゴビやサブジーと一緒に出してくれました。アールー・ゴビがとても美味しかったのを覚えています。このインド旅行でいろいろなインド料理を食べましたが、わたしの一番好きなのがジャガイモとカリフラワーのカレー、アールー・ゴビと豆のカレー、ダールでした。これは日本に帰ってからも変わらず、いまでもインド料理店に入ると必ず注文してしまいます。

食後、一度日本語のできるシヴァ・シャンカラーナンダさんのところに寄ってから、三人でバイス・プレジデントであるスヴァーミー・マドヴァーナンダさんのところに挨拶に。マドヴァーナンダさんは、一見恐そうな感じのする眼の鋭い人でした。もちろんスヴァーミー・シヴァーナンダの直弟子の一人です。事務所を出ると、みんなと別れて部屋に戻り少し休みました。
アーシュラムの中には「ブック・ストール(本屋)」があり、シヴァーナンダさんやチダーナンダさんやクリシュナーナンダさんの本や写真を買うことができます。当時はここで本を買うと、きれいに梱包してくれたうえに宛名をタイプで打ってくれ、隣の郵便局で日本に送ることができたのです。
今日は本ではなく、シヴァーナンダさんやチダーナンダさんの写真を買いました。41ルピー。日本に帰ったら部屋に飾るつもりです。

3時15分からの散歩は、シャンカラーナンダさんがどこかに出かけることになり、中止になってしまいました。5時15分からの瞑想の時間になってもスヴァーミージーは帰ってきませんでしたので、自分たちで鍵を開けて中に入ると銘々に瞑想をしました。

夕食はキチリというインド風おじやとチャパティとダール。昼食と比べると味も美味しくありません。ここはホテルではなくアーシュラムです。食事について文句や贅沢を言うのは筋違いなのは分かっていますが、夕食だけはあまり口に合わず、ときどき近くのお店に食べに行っていました。
バジャン・ホールでの夜のサット・サンガ。今日はヒンディー語の講義なので、何を言っているのかが分からず、しばらく居てから退出してしまいました。スヴァーミーによってはヒンディー語しかできない方がいるのです。

12月20日。
5時に起きて洗面。少し自分の部屋でヨーガをしてから、6時のアーサナのクラスに。当時のアーサナの先生はスヴァーミー・クリシュナさんでした。ゼネラル・セクレタリーのスヴァーミー・クリシュナーナンダさんではありません。お間違えの無いように。
シャンカラーナンダにシヴァシャンカラーナンダ、クリシュナにクリシュナーナンダ、わたしたち外国人にとってスヴァーミーたちの名前はほんとうにややこしいです。
スヴァーミー・クリシュナさんはアーサナを担当していますが、普段は食堂で働いているとても気さくな方です。まず、スーリヤ・ナマスカーラから始まり、休みなしに次から次に行なうというやり方でした。日本ではゆっくりと静かに行なっていたわたしにとっては、少しハードに感じました。しかし、スヴァーミー・クリシュナさんのやるアーサナが全部できたからか、いちいち「ファースト・クラス!」「エクセレント!」と言ってか褒めてくださいました。
このとき、わたしが日本で何人かの先生に教えていただいたヨーガのレベルが決して低くはないということを実感しました。自分の学んできたヨーガが間違っていなかったということを感じました。

アーサナが終わったら、Oさんが鍵をなくしてしまったと言ってきました。朝食の時間でしたが仕方がないので一時的にわたしが日本からもって来た鍵を掛け、あとは管理人のシャンカールに頼んでスペア・キーを持ってきてもらうことに。Oさんも霊能力者ならば、自分の失くした鍵くらいその力を活かして探せばよいのに…。
それから朝食に。今日はティーとチャナという豆のスパイス煮でした。

朝食後、9時半にシャンカラーナンダさんの部屋に話を聞きに。耳が慣れたせいでしょうか、講義の内容も今日は大分理解することができました。通常の状態→コンセントレーション→メディテーション→サマーディを、わたしたちの英語のレベルを考えてか、とても分かりやすく説明してくださいました。

昼食は、ライスとチャパティ、サブジーにダール。基本的には一汁一菜ならぬ、一汁二菜のようです。昼食はとても美味しくて、安レストランで食べるよりもずっと豪華です。
昼食後、Oさんは失くした鍵を買うためにリシケーシの町へ。わたしはシャツやパジャマや下着を洗濯。
昼食から夕方までの時間帯は暑いせいか、アーシュラムのプログラムや行事はほとんどなくなります。わたしたちもこの時間に洗濯をしたり水のシャワーを浴びたり昼寝をします。また、手紙を書いたり本を読んだりするのもこの時間帯です。
アーシュラムでは、3時にはチャイが出ます。ダイニング・ホールまで階段を上って行かなくてはなりませんが、チャイが飲めるのです。アーシュラムでは二食くらいしか出ないと思っている人が多いと思いますが、シヴァーナンダ・アーシュラムに限って言えば、三食どころかチャイまで出してくれるのです。ただ、それを全部食べるかどうかは個人個人に任せられているのです。これはとても驚きでした。インドに来る前、アーシュラムのスケジュールも食事もすべてが「がんじがらめ」に決められていると思っていたわたしにとってはとても新鮮な驚きでした。個人に、一人一人に任せられているのです。サボろうと思えば、いくらでもサボれるのです。勉強しようと思えば、いろいろなことが学べるのです。
これがアーシュラムでヨーガを学ぶことの意義です。人任せではなく、自分自身の意志で何を学ぶかを決めなくてはなりません。上の人から何かを言われないと何もできないような人は、ただ無駄に時間を過ごすことになってしまいかねません。
しかし、正反対のことを言うようですが、アーシュラムに居るというだけで回りの影響を受け、自分自身が自然に変わっていくことがあるのも事実です…。

3時のお茶の後、再びシャンカラーナンダさんのところへ。裏山へ散歩。そして、山の中で瞑想。今回の瞑想は脚がしびれてあまりいい状態になりませんでしたが、Oさんは佐保田先生よりも力を強く感じたと言っていた。シャンカラーナンダさんの放つ霊的なパワーのことなのだろうか…。

夕食はアーシュラムで食べずに、Oさんと一緒に安食堂「ナーラーヤン」に。ライス、アールー・ゴビ、パコラ、チャイ。ちょっとした定食ですが、これで2ルピー15パイサ。日本円にして70円程度。


夜の10時ころだろうか、部屋で寝ていたら「ドンドン!」とドアを叩く音。なんだろうと思ってドアを開けると、管理人のシャンカールと井上先生が立っていました。先生の話ではハリドヴァールからタクシーに乗り、今アーシュラムに着いたとのこと。森さんも一緒に来たようです。
しかし、今夜はもう遅いので、あまり話しをせずに寝ることに。
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by preman9798 | 2011-01-25 10:06 | Comments(4)

寒いですねぇ~。

土曜日は代々木UTLでTTコースがありました。
未来のヨーガ・インストラクターのたまごさんたちです。
すでに何回かこのコースを担当させていただきましたが、やはり、いろいろと個性があるようです。
やたらと元気の良い人たちが集まった「○○期生」。
とても熱心な人たちが集まったのか、いろいろと質問をしてくれる「○○期生」。
前回担当した「○○期生」はとくに熱心でしたが、今回の「○○期生」もたいへん熱心な感じを受けます。
みんなこれからの人生ずっとヨーガに携わっていってほしいと思います。


昨日月曜日は、午前は池袋の教室、午後からは代々木UTLにて『インドの叡智』の授業がありました。

午前の池袋教室は、昔からの仲間たちとの授業です。
もう20年くらい一緒にヨーガを学んでいるでしょうか。
実技だけではなく、ヨーガの歴史や哲学を学び、そのときのテキストが『インドの叡智』という本になりました。
シヴァーナンダさんの話をし、そのときに配っていた資料が『シヴァーナンダ・ヨーガ』になりました。
ヨーガに関する用語解説をし、そのときの膨大なコピーが『ヨーガ事典』になりました。
そんな、昔からの仲間たちとの教室が池袋教室です。

それに比べると、昨日の午後からのUTLは若い仲間たちとのヨーガです。
しかも、月曜日は実技ではなく『インドの叡智』を使っての勉強会です。
その勉強会も昨日から第3部に入り、いよいよあと8回で終了となります。
第3部は、グルについて、そして聖者やヨーガ行者たちの生涯を取り上げます。

自分で言うのも変ですが、この第3部はたいへんユニークな内容です。
今日、ヨーガと言うと生理学でや解剖学であったり、アーユル・ヴェーダに人気が集まっているようですが、これら聖者たちの生き方や思想を学ぶということもたいへん重要だと思います。
ぜひ、関心のある方は学びにいらしてください。

UTLでの勉強会の後、この授業に参加してくださっているNさんkさんと話し合いをしました。
まだ、ご報告できる段階ではありませんが、あることを企画していて、その打ち合わせでした。
今、ツイッターでわたしの大好きなシヴァーナンダさんの金言を発信していますが、実はそれに関連したことなのです。
近いうちに良い形でご報告できたらとは思いますが、結果は神様任せです…。





わたしの初めてのインド・22

少しずつアーシュラムでの生活にも慣れてきました。今まで一ヶ月半ほどインドを旅行して来ましたが、リシケーシは別天地です。ガンジス河のほとりのこの聖地は、ここに居るだけで心が穏やかになってきます。
シヴァーナンダ・アーシュラムの創始者グルデーヴ・スヴァーミー・シヴァーナンダさんや、初期のシヴァーナンダ・アーシュラムの様子については、『シヴァーナンダ・ヨーガ』(成瀬貴良著・善本社)をお読みください。
この本は、わたしの初めてのインド旅行で、シヴァーナンダ・アーシュラムに滞在した際の生活やグルデーヴ・シヴァーナンダという人に感銘を受け、どうしてもシヴァーナンダさんやアーシュラムを紹介したいと思い、書いたものです。


●アーシュラムでの生活
12月19日。
アーシュラムの生活の三日目です。朝、5時に起きました。アーシュラムでは決して早い時間ではありません。むしろ遅すぎます。もうすでに、マントラを唱える人、瞑想する人、プージャー(供養)を行う人など、スヴァーミーたちの個々の勤行が始まっています。
インドでは、早朝の4時から6時くらいまでをブラフマ・ムフールタ(聖なる時間)と呼び、ヨーガや神聖なることを行うのに最も適した時間帯とされています。アーシュラムの一日もこのブラフマ・ムフールタから始まります。
ブラフマ・ムフールタは、たしかになんともいえない独特の雰囲気を持った時間帯です。山あいにあるリシケーシの4時はまだまだ真っ暗です。ですから、アーシュラムの一日の始まりは、お祈りに行くにも、瞑想に行くにも、他の建物への移動は懐中電灯が必需品なのです。

朝、5時に起きたのは良いのですが、寝袋のチャックが噛んでしまいました。冬のリシケーシの朝晩は結構寒く、アーシユラムから支給されている毛布や布団だけでは足りず、寝袋を使っていたのです。これまでにも時々チャックが噛んでしまい、いらいらしたことが何回かありました。きちんとした登山用具店で買ったものではなく、量販店で売っていた安物だったのを思い出しました。しかし、今までの旅行中、この安物の寝袋にどれだけ助けられたか分からない、というのも事実です。

リシケーシで冬を過ごすときは、毛布を購入することをお薦めします。比較的容易にしかも安く手に入ります。この毛布が、寝るときの寒さ対策になるばかりでなく、たとえばアーサナや瞑想を行なうときの敷物の代わりになったり、外出するときのコート代わりになったりするのです。毛布では重いし、あまり恰好が良くないと思う人はショールを買うとよいでしょう。男性用の少し大きめのショールがあります。アーシュラムではみなショールを頭からすっぽりとかぶって朝の瞑想やマントラを行じています。
ただ、寒暖の差が激しいので、朝巻きつけていたショールを、日中暑くなってくるとついどこかに置き忘れてしまうことがあるので注意が必要です。雨が降っていたのに途中から晴れたために傘を置き忘れてしまうのと同じです。置き忘れたところに慌てて戻っても、すでに誰かが持って行ってしまったのか、もうそこにはなかったということがわたしにも二、三度ありました。悔しいけれど、きっと、バカな日本人だと思われたことでしょう。

歯を磨き、顔を洗うと、急いでバジャン・ホールのアーサナに。しかし、せっかく張り切って行ったのにアーサナの先生、スヴァーミー・クリシュナさんは風邪でお休みということでした。すでにバジャン・ホールには白人の女の子が三人くらい来ていて、先生がいないので銘々にアーサナをやっていました。彼女たちはスーリヤ・ナマスカーラを一所懸命にやると、引き上げていきました。ローナワラのカイヴァリャダーマでは、男女が一緒にアーサナを行うことはなく、間にはカーテンが引かれていましたが、シヴァーナンダ・アーシュラムでは男女一緒に行ないます(※現在では、アーサナは男女別々のクラスで行なっています)。
アーサナが終わると朝食を摂りにダイニング・ホールへ。今日はチャイとわたしの大好きなウプマでした。

朝食後、いったん部屋に戻り、バケツを持ってお湯をもらいに行きました。今でこそ蛇口をひねればお湯が出てシャワーを使うことも洗濯でも容易にできますが、当時はお湯がたいへん貴重品でした。お湯をもらえる場所が決まっていて、わたしの部屋からはかなり離れたところにありました。片目の太ったおじいさんが担当していて、一人にバケツ一杯分しかお湯をくれません。このおじいさんがなかなか頑固で、絶対に一人に二杯はくれないのです。一杯で頭や身体を洗い、できたら洗濯もしなくてはなりません。インドを旅している間に実感していましたが、ここでもお湯はたいへん貴重です。「アナン・ニケータン」でも、安宿でもお湯は使うことはできませんでした。本来ならば、一杯でもお湯が使えるというだけでも感謝しなくてはならないのかも知れません。久しぶりに洗った頭はとても気持ちよかった!

スヴァーミー・クリシュナーナンダさんがデリーの病院に行くということなので、Oさんと一緒に8時半にクリシュナーナンダさんのところに挨拶に。部屋に行くと、入浴中とのことで少し待つことになりました。Oさんは日本から用意してきたオレンジ色のタオル、日本のお菓子、ボールペン、100ルピーなどをドネーションしました。タオルには、クリシュナーナンダさんの名前が刺繍してありました。きっと、Oさんが縫ったのでしょう。
スヴァーミージーが出かける前なので、わたしたちは10分程で部屋を後にしました。建物を出たところでちょうど偶然、シャンカラーナンダさんにお会いし、井上先生や森さんがアーシュラムに来たら、少しはなれたところにある洞窟に連れて行ってくださるという話になりました。おそらく「ヴァシシュタ・ケーブ」のことだと思われます。伝説上の聖者ヴァシシュタが瞑想したという、大きな洞窟がアーシュラムからしばらく上流に行ったガンジス河の河原にあるのです。

Oさんと裏山にある寺院に行ってみることに。
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by preman9798 | 2011-01-18 14:21 | Comments(0)

八雲教室勉強会

昨日は八雲教室の後、『インドの叡智』を使っての勉強会がありました。
実は、この勉強会も残すところあと一回となりました。
昨日はオーロビンド、クリシュムルティ、そしてわたしの大好きなシヴァーナンダさんの紹介でした。
次回、最後はシヴァーナンダの生涯の後半と、どのような生き方をされたかをゆっくりと話したいと思います。
どうしても、シヴァーナンダさんの話をすると、感極まって涙が出そうになってしまいます。
歳とともに涙腺が緩んできたのかなぁ…。

昨日の講義ではシヴァーナンダさんの紹介に関連して、わたしが初めてリシケーシのシヴァーナンダ・アーシュラムを訪れたときの話もしました。
それは偶然にも、このブログの後半の「わたしの初めてのインド」の日記とまさしく同じところです。


八雲教室勉強会の『インドの叡智』が終わった後、何をテーマに学ぶのか決まっておりません。
『ヨーガ・スートラ』を学びたいという声も上がっているようですが、
講義の準備をするのにも、資料を作るのにも、大変な時間がかかります。
しばらくはお休みということになるかもしれません。
この教室の人たちはみなさんとても熱心で、毎回質問もあります。
またいつか、一緒に勉強できればと思っています。






わたしの初めてのインド・21

これからしばらくはシヴァーナンダ・アーシュラムでの生活を紹介します。


●シヴァーナンダ・アーシュラム
12月18日。
シヴァーナンダ・アーシュラムの2日目。今日から本格的にヨーガ・ライフをと思ったのですが、疲れが溜まっていたせいでしょうか、珍しく寝坊をしてしまいました。部屋も暗くて静かなので、ぐっすりと寝てしまったようです。でも、何とか7時の朝食には間に合いました。
わたしのいるクティール(宿坊)は斜面の下の方にありますが、ダイニング・ホールは上の方にあります。長い階段を一所懸命上っていきました。
朝食はチャイとウプマという米(小麦?)を蒸かして香辛料で味をつけたものでした。このウプマはほんとうに美味しく、帰国後もいろいろなインドレストランに行ってはメニューを見るのですが、どうしても見当たりません。もしかしたら、レストランで食べるようなものなのではなく、家庭料理なのかもしれません。
チャイもローナワラのカイヴァリャダーマの薬草茶とは違い、薄いとはいえインドのチャイです。
朝食はダイニング・ホールで摂る人や自分の部屋に持って帰って食べる人などいろいろで、夕食のように一斉に食事を摂るということはありませんでした。

朝食の時、Oさんと会ったので、そのまま少し散歩をし、9時半にシャンカラーナンダさんの部屋へ。スヴァーミージーはいろいろなことをお話くださいましたが、正直なところ全部理解できたとは言えません。英語の苦手なわたしたちのために、ゆっくりとていねいに話してくださるのですが、聞きなれない単語や専門的な用語などが出てくると、もう分からなくなってしまいます。ただ、Oさんがテープレコーダーで録音していたので、日本に帰ってから英語のできる人に聞けばどんな内容か分かるでしょう。

アーシュラムで初めての昼食。やはりダイニング・ホールでアーシュラムにいる人が一斉に摂ります。スヴァーミーだけの場所、働いている人だけの場所、女性だけの場所などに分かれて坐らなくてはならないのは昨日と同じでした。
夕食のときと同じように、床に敷かれたじゅうたんの前には空の食器が等間隔に並んでいて、その前に一人ずつ坐ります。やがて、学校給食のようにバケツに入ったライスやカレーなどが次々と配られていきます。その間、わたしたちは「ハレー ラーマ ハレー ラーマ~ 」とマハー・マントラを繰り返し歌って待っています。そして、全員に配られると、スヴァーミー・デーヴァーナンダさんの合図で一斉に食べ始めます。

前の列に坐っているインドの人たちを見ると、チャパティの少しこげた部分を神経質に取り除いている人、わずかに入っているトマトの皮をきれいに取り出している人、そうかと思うと、食べる前にマントラを唱えている人、何の儀礼なのか手のひらに水を掬い食器の回りに回しかける人、などいろいろです。
この日のメニューは、ライス、チャパティ、サブジーと呼ばれる野菜カレー、野菜のスパイス味スープでした。アーシュラムでは三食のうち昼食がもっとも豪勢です。朝食や夕食は質素でしたが、昼食はなかなか豪華です。昨夜の夕食とはまったく異なり、味もとても美味しく、わたしの口に合うものでした。
もちろん、右手だけで食べるのですが、これはインドに来て一ヶ月以上経ちますので、どうということはありません。ただ、食事時間は短く、食べるのが遅い人にとっては落ち着かないかも知れません。しかし、比較的早食いのわたしにとってこれもまったく問題ありませんでした。
これはアーシュラムでは、食事というのは楽しみのために摂るのではなく、修行のための身体を維持していくために摂るという考えが根本にあるからです。
ダイニング・ホールの壁には「キープ・サイレント」と書かれています。ダラダラとおしゃべりをしながら食べるなということでしょうか。そういえば、日本でも禅寺では食事を摂るときに(風呂やトイレでも)おしゃべりは禁じられています。
サブジーが美味しく、おかわりをしました。ライスも日本のお米と違いボソボソしていますが、カレーにはとても合います。
最後はバターミルクという白い飲み物が出ます。バターとミルクという名前から想像するしつこさはなく、薄いヨーグルトの塩味といったところでしょうか。さっぱりしていて、これもなかなか美味しい飲み物でした。なんだかシヴァーナンダ・アーシュラムの昼食が楽しみの一つになりそうです。これでもう少し夕食が美味しければ、何も言うことはないのですが…。
食べ終わった後は、夕食のときと同じように洗い場で食器を洗って返却します。

食後、スヴァーミー・シヴァシャンカラーナンダさんのところに行きました。シャンカラーナンダさんではありません。シヴァシャンカラーナンダさんです。名前が似ているのでややこしく、混乱してしまうかも知れませんが、Oさんがわざわざ京都から会いに来たのは南アフリカからいらしているシャンカラーナンダさんで、シヴァシャンカラーナンダさんとは別人です。
シヴァシャンカラーナンダさんは、昔マレーシアで日本軍の関係施設で働いていたということで、片言の日本語がお出来になります。わたしたちのようにあまり英語が得意でない日本人がアーシュラムに来ると、リセプションの人が気を利かせてシヴァシャンカラーナンダさんを呼んできてくれるのです。
シヴァシャンカラーナンダさんの専門はジャパ・ヨーガということで、わたしも帰るまでに教えていただこうと思いました。面白いことにシヴァシャンカラーナンダさんから、森本哲郎氏の名刺を見せてもらいました。わたしがインドに行ってみようと思うきっかけの一つになった『異郷からの手紙』(ダイヤモンド社)の著者、評論家の森本哲郎氏です。あの本の中にあったように、実際に森本氏はシヴァーナンダ・アーシュラムに滞在されたのだと思うと、少しばかり感銘を受けました。

3時15分に再びシャンカラーナンダさんのところへ。スヴァーミージー、スヴァーミージーの付き人、Oさん、オーストリアから来たという女の子、わたしの五人で裏山に散歩に行きました。途中、キツツキや野生のサルや孔雀に出会いました。森の中を歩きながら、スヴァーミージーはいろいろなことを話してくれました。
シャンカラーナンダさんはやはり今月アーシュラムを発ち、南アフリカに帰るということでした。Oさんがインドに来たのもそのためなのですが、たしかに南アフリカに帰ってしまっては会うのは難しかったでしょう。
森の中の少し広くなった場所で、短い時間ではありましたがみんなで瞑想をしました。敷物もなく石ころだらけの地面に直接坐るので、少しお尻が痛かったのですがとても気持ちよく、あっという間に時間が経ってしまいまた。

散歩の帰り、もうアーシュラムが見えるというところまで来たとき、オーストリアの女の子が鍵をなくしたと言い出しました。
わたしを見るみんなの眼は、「お前も一緒に探してやれ」と言っているようです。たしかにアーシュラムが近いとはいえ山の中ですので、安全とは言い切れません。
わたしのほうも、もしかしたらこのオーストリアの女の子と話ができるかもしれないという下心があったので、一緒に鍵を探してあげることに。
ところが鍵は2、3分もしないうちに見つかり、親しく話をする時間などまったくありませんでした。それでも、お互いにオーストリアから来た、日本から来たなどと二、三の簡単な会話を交わすことができました。わたしがオーストリアで何をしているのかと聞くと、「ウォッチタブル」という返事が返ってきました。聞いたことのない単語です。もう一度同じ事を聞くと、今度は「ウィッチ テーブル」と聞こえました。わたしの頭は「どのテーブル」と訳していますが、なんのことか分かりません。「ウォッチタブル」「ウィッチ テーブル」…。しばらく考えていると、トマト、ポテト、オニオンと野菜の名前を挙げています。それでやっと「ウォッチタブル」の正体が分かりました。「ヴェジタブル」、つまり彼女はオーストリアで野菜を作っていると言ったのです。それにしても「ヴェジタブル」が「ウォッチタブル」「ウィッチ テーブル」とは訛りすぎです。たったこれだけの会話なのに数分もかかっています。それにしても彼女が訛りすぎなのか、わたしの耳が悪いのか、一瞬期待した国際恋愛はどうも無理なようです…。

部屋に帰って身体を拭いて、5時15分からの瞑想に。メディテーション・ホールも上の方にあります。また山門をくぐり、長い階段を上っていかなくてはなりません。良い運動です。これならばアーサナなどしなくても身体は丈夫になるに違いありません。おそらくアーシュラムにいる年配のスヴァーミーたちに取ってこの長い階段の上り下りはたいへんだろうと思いました。
これは後で知ることになるのですが、昔は今のようなコンクリートの階段ではなく、泥を固めただけの手作りの足元の悪い階段だったようです。それを年老いたグルデーヴ・シヴァーナンダさんは一日に何度も上り下りをされたと聞きました。そのことを考えたら、若いわたしが文句を言う資格などありません。

メディテーション・ホールでの瞑想はとてもよい雰囲気です。シヴァーナンダ・アーシュラムの施設は、バジャン・ホールにしてもヴィシュヴァナート・テンプルにしても、どこもオープンで人の出入りが絶えません。一人静かに坐りたいときなどはなかなか適当な場所がありません。その点、メディテーション・ホールでの瞑想は鍵を掛けてしまいますので、少なくともその時間帯は誰にも邪魔されずに坐れます。
瞑想のクラスは少しの休憩を挟んで二回あります。最初のクラスはスヴァーミージーがいらして、そのときはほとんどシャンカラーナンダさんが担当されていましたが、簡単なインストラクションがあります。二回目の瞑想は、なんの指示もなく、ただ暗い部屋の中で黙々と坐るだけです。

夜7時45分からのサット・サンガ。今はサマーディシュラインで行なっているサット・サンガですが、当時はバジャン・ホールで行なわれていました。あまり広くないバシャン・ホールはスヴァーミーや滞在者で満員でした。わたしは部屋でアーサナを行なうと、その日はそのまま寝てしまいました。
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by preman9798 | 2011-01-13 09:21 | Comments(9)

2011年のスタート

いよいよ2011年のヨーガがスタートしました。
今年こそブログを頻繁に更新するつもりでいたのですが、
すでに十日を過ぎてしまいました。

今年のヨーガは水曜日の八雲教室からのスタートでした。全員出席。
しばらくお休みしていた超ベテランのYさんのカムバック。嬉しいです。
水曜日の夜は代々木UTL。いつも参加してくださる生徒さんたちでした。

6日の木曜日は、吉祥寺教室。ここも全員出席。体験入学のSさん。
木曜日の夜は池袋での勉強会。『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』第1章。
今日から参加の四名を含め、大勢来てくださいました。ありがとうございました。
次回で第1章は終り、2月からはいよいよ第2章の「シャット・カルマとプラーナーヤーマ」
に入ります。
次回27日(第四木)は第1章が終りということもあり、
授業後は近くのインド料理店で懇親会があります。
これも楽しみ。

金曜日は代々木八幡でのレッスン。とても広い会場です。ここも次回が新年会。

土曜日はY.L.S.。今まで「代々木八幡区民会館」で行っていましたが、
今年からは小田急線喜多見駅の「喜多見地域会館」での授業。
場所が変わっても大勢の人が来てくださいました。
そして、この会場はキールタンができるので、勉強の後はキールタン。
新しい曲を二つばかり。
まだハーモニュームがぎこちないです。もっと練習しなくてはなりません。

10日の月曜日、成人式。この日は、町で奇麗な振袖を着た若い女の子にたくさん出会います。
なんだか嬉しくなります。わたしの成人式…、もう20年も前のことです(?)。

この日は代々木UTLで『インドの叡智』の勉強会。
第2部の最終回、マントラ・ヨーガやスヴァラ・ヨーガを紹介しました。
祝日ということもあり、初めての方が大勢参加してくださいました。
う~ん。やはり、月曜日の昼間というのは参加しづらいのでしょうか。


シヴァーナンダさんの金言集のツイッターもフォロワーの方々がどんどん増えてくれています。
これからも更新していきますので、よろしくお願いいたします。





わたしの初めてのインド・20

リシケーシに着きました。シヴァーナンダ・アーシュラムでの生活が始まります。


●リシケーシ到着
リシケーシの町からトンガという乗合い馬車に乗ってアーシュラムまで行くことに。一人2ルピーでした。トンガは止まっているときは、座席も大地と平行なのですが、いざ動き出すと座席が傾き、ビニールのシートからずり落ちそうになってしまいます。
トンガはリシケーシの町中を通り、ガンジス河を上流に向かって進んでいきます。今はもうありませんが、当時はアーシュラムへ向う途中、道路に踏み切りの棒のようなものがあって、遮られていました。トンガの御者はそこで税金を払い、踏み切りの棒のようなものを上げてもらい、通るのです。きっと町だか村だかの区域の境界だったのでしょう。
右手にガンジス河を見ながらトンガに揺られていくと、わたしが滞在する予定のヨーガ・ニケータンがありました。インドに来る前年、ヨーガ・ニケータンの創始者スヴァーミー・ヨーゲーシュヴァラーナンダが日本にいらしたとき、藤田鳳子先生のご自宅でお目にかかり写真を撮っていたので、その写真を持ってヨーガ・ニケータンに滞在させていただくつもりだったのです。
今日、インドに行くたびにシヴァーナンダ・アーシュラムに滞在させてもらっていますが、実は、最初の目的ではわたしはシヴァーナンダ・アーシュラムではなく、ヨーガ・ニケータンに滞在する予定だったのです。
0さんをシヴァーナンダ・アーシュラムにお連れしたあと、せっかくなのでできたらわたしもシヴァーナンダ・アーシュラムに数日滞在させていただき、その後ヨーガ・ニケータンに移るというスケジュールを密かに立てていたのです。

わたしたちを乗せたトンガは、シヴァーナンダ・アーシュラムのレセプション・オフィスの前で止まりました。シヴァーナンダ・アーシュラムは山の斜面にあります。リシケーシの町の方から行くと、右手にレセプション・オフィスや病院などの施設があり、さらにその先にはガンジス河が流れています。
一方、左手にはレセプション・オフィスと向かい合うように山門があり、それをくぐって長い階段を登っていくと、バジャン・ホール、メディテーション・ホール、ダイニング・ホール、スヴァーミーたちの宿坊などさまざまな建物や重要な施設が点在しています。

オフィスでいくつかの手続きを済ませ、部屋をもらうことになりました。今でこそ清潔な外国人用の宿舎がありますが、当時はまだそのような施設はなく、わたしは「ガネーシャ・クティール」というガンジス河に近い宿舎の一室を貸してもらうことになりました。
クティールとは「小屋」というような意味で、シヴァーナンダ・アーシュラムでは神様の名前をつけたクティールがいくつもあり、そこにスヴァーミーや修行者や滞在者などが暮らしています。
わたしが貸していただいたガネーシャ・クティールはオフィスの近くにある、三階建ての建物でした。その二階の7号室がわたしのアーシュラムでの部屋となりました。
ガネーシャ・クティールには大部屋もあり、インドの人たちはその大きな部屋に寝泊りしていましたが、わたしの部屋はベッドが二つある個室でした。ベッドが二つあるところを見ると、本来は二人用の部屋なのかも知れませんが、しばらくは一人で使えるようです。
部屋の中には家具らしいものは何一つありません。ベッドの他には小さな木の机と椅子、壁に組み込まれた棚があるだけです。あとは掃除用のホウキとバケツ。蛍光灯もなく、壁に裸電球が一つあるだけでした。トイレやシャワーは共同です。もちろんシャワーは水だけで、お湯など出るはずもありません。

ガネーシャ・クティールは、斜面の下の方にありますので、何をするにも長い階段を上っていかなくてはなりません。食事を摂るダイング・ホールも、瞑想をするメディテーション・ホールも、サット・サンガをするバジャン・ホール(現在はサマーディ・シュラインでサット・サンガを行なっています)も、すべてアーシュラムの敷地内の上の方にありますので、一日に何回も階段を上り下りしなくてはなりませんでした。それだけでも良い運動です。

0さんの部屋は女性ということもあり、アーシュラムの敷地内の比較的安全なところにある女性のスヴァーミーのための宿舎の一室のようでした。0さんは荷物の整理もあり、一休みしたいというので、しばらくして会うことにしました。無理もありません。緊張の連続で少し疲れたのでしょう。
わたしは少しお腹が減ったので、レセプション・オフィスでもらった鍵を掛けると、チャイを飲みに散歩に出かけました。近くに「マドラス・カフェ」という南インドの料理を出してくれるお店があると聞いていたのですが、見つかりませんでした。
アーシュラムから少し離れたところに、トンガの溜まり場があります。ここからリシケーシの町までを往復するので、何台ものトンガが停車しています。
今ではここはオート・リキシャやタクシーの駐車場になっていて、排気ガスで喉が痛くなるほどですが、当時はトンガがのんびりと止まっている停車場でした。
その停車場になっている広場をはさむようにして、小さな茶店が数軒並んでいて、簡単な食事も摂れるようになっています。長屋のように何軒かが連なっていて、どれも同じような造りで5、6人も入ればもう満員です。中は薄暗く、机も椅子もガタガタです。まず、外国人観光客は来ないでしょう。しかし、この中の一軒「ナーラーヤン」というお店が気に入り、その後リシケーシに滞在している間中、アーシュラムの食事が飽きるとこの店で飲み食いをしました。

チャイを飲んだ後、0さんの所に行き、二人でスヴァーミー・シャンカラーナンダの部屋を訪ねました。実は、0さんが一人でリシケーシにまで来ることになったのは、このシャンカラーナンダさんに会うためだったのです。数年前に佐保田先生や田原先生たちのツアーでシヴァーナンダ・アーシュラムを訪れた0さんは、スヴァーミー・シャンカラーナンダに出会い、とても感銘を受けたということです。
このシャンカラーナンダさんは南インド出身のインド人で、もうすぐ南インドに帰るということでした。南インドに帰ってしまってはなかなか会えなくなってしまうので、インドにいる間にもう一度会いに来たということのようです。スヴァーミー・シャンカラーナンダさんは、0さんにとってはそれだけ魅力的な方だったのでしょう。

スヴァーミー・シャンカラーナンダさんは、体格の良い、おおらかな印象のとても感じの良い方でした。年齢ははっきりとわかりませんが、4、50代だったでしょうか。0さんはお土産にと日本から持ってきたテープレコーダーとテープを数本上げました。スヴァーミーはたいへん喜び、わたしたちにインドのお菓子やら果物をたくさんくださいました。
0さんも多少は英語ができるのでしょうが、なぜかわたしが0さんの通訳の役目をしなくてはならなくなりました。側にいて、一緒にいろいろなことを学べるのは嬉しいですが、わたしだって通訳が務まるほど英語ができるわけではありません。この状況を何とかしなくてはなりません。0さんは、英語のできる井上先生が一緒にリシケーシに来てくれるものと思っていたようです。

5時15分からはメディテーション・ホールで瞑想があります。現在、この建物はミュージアムのようになっていて、コンピューターでアーシュラムの歴史などを観られるようです。
丸い部屋の中は真っ暗です。間隔を置いて坐布が置いてありました。正面には「オーム」と書かれた文字板があり、電気で光っていました。
時間が来ると、出入り口に鍵を掛けます。瞑想なので途中で入ってくると気が散るということもあるのでしょう。
しかし、それは瞑想が嫌だからといって途中で出ることもできないということでもあります。
スヴァーミー・シャンカラーナンダが、背筋を真っ直ぐにしなさい、力を抜きなさいというような簡単な指示をしてくれます。あとは静けさの中をひたすら坐ります。とても良い気持ちで坐ることができました。終わりの時間が来ると、スヴァーミージーがシャーンティ・マントラを唱えます「オーム プールナマダハ プールナミダン プールナート~ 」。

その後、スヴァーミージー自らが案内してくださり、ヴィシュヴァナート・テンプルに。現在もそうですが、このテンプルで行なわれるアーラティはロウソクを祭具に飾って、とてもきれいです。
夕食。アーシュラムで初めての食事です。ダイニング・ホールが見つからず少し遅れたせいでしょうか、一回目の食事に間に合わず、二回目の食事に。
食事を摂るところはダイニング・ホールの2階にあります。1階に靴やサンダルを脱いで2階に上がっていきます。広い床に所々に細いじゅうたんが敷かれています。その前にステンレスだか真鍮だかの食器が間隔をあけて並べられています。食器の前に一人ずつ順番に坐っていきます。
どこに坐っても良いというわけではありません。スヴァーミーだけの席、アーシュラムで働いている人の席、滞在者の席、女性だけが坐る場所など、それぞれ坐るじゅうたんが決められているのです。
空の食器の前に坐り、食事が配られるのをマハー・マントラを歌いながら待っています。配膳担当の人たちが次々とバケツの中から目の前の食器に入れていってくれます。配り終わったころ、スヴァーミーの合図でマントラを唱え、唱え終わると一斉に食べ始めるのです。
初めての食事はチャパティ、ダル、キチリでした。正直、あまり美味しくありませんでした。ローナワラにいた時はローナワラの食事は美味しくないと思っていましたが、この夕食に限ってだけ言えば、ローナワラのほうが美味しかったような気がします。
しかし、ここはアーシュラムです。ホテルではありません。ヨーガを学ぶところです。食事の些細なことで不服を言うようでは、何しに来たのかと叱られてしまいそうです。
みんな黙々と食べています。お変わりは自由です。食べ終わったころを見計らって配膳係りの人がよそってくれるのです。もっと食べたければお変わりをすればよいし、お腹がいっぱいならば断ります。
自分が食べ終わったからと言って、勝手に席を立つことはできません。みんなが食べ終わったころ、誰ともなくマントラを唱えます。きっと、食事への感謝のマントラなのでしょう。そして、スヴァーミーの指示で順番に食器を持って立ち上がり、食器の洗い場に向います。まずはスヴァーミーたち、次に働いている人たち、そしてわたしたちのような滞在者、最後に女性です。
蛇口のいくつもある長い洗い場で、自分の使った食器をきれいに洗います。今は薄い液体洗剤を使っていますが、当時は灰を使って洗っていました。ていねいに洗わないと、返却するときに担当の人が細かくチェックするのです。ちょっとでも汚れがあると、もう一度洗い直しです。

実は、このときダイニングを統括していたのが、後にわたしのキールタンの師となるスヴァーミー・デーヴァーナンダでした。少し太り気味で顔は恐く、声も大きくて、一見すると親しみを覚える風貌ではありませんが、キールタンをとても上手に歌います。
スヴァーミー・デーヴァーナンダは、通常グルデーヴ・クティールという、生前シヴァーナンダさんが暮らしていらしたクティールの管理をしています。夕方、ここで行われる子どものためのバジャンとガンガー・アーラティは、アーシュラムでのわたしの一番好きなプログラムでした。

食後、0さんの部屋で「あられ」をご馳走になりました。なぜか0さんはしきりに京名物の湯葉を自慢していました。お国自慢というところでしょうか。
夜、バジャン・ホールでサット・サンガがあります。現在はサマーディ・シュラインでサット・サンガを行なっていますが、当時はバジャン・ホールで行なっていたのです。
そのアーシュラムでの最初のサット・サンガで、以前ベナレスで聞いたあの歌と同じような歌を聴きました。愕然としました。なんでアーシュラムでもあのとき聞いた歌を歌っているのだろう。理解ができませんでした。やがて、これはキールタンというものであり、アーシュラムでは日常的に行なわれていることを知りました。そのとき、わたしは決心しました。絶対にこのキールタンを何曲かマスターしようと。
サット・サンガはこのキールタンで始まり、何人かのスヴァーミーが交代で話をしました。そのときは良く分かりませんでしたが、きっと『バガヴァッド・ギーター』の講義だったのではないかと思います。
最後にもう一度楽器を使ってキールタンを歌います。そして、すべて終わったのはすでに夜の10時近くでした。
わたしはアーシュラムの長い階段を下り、自分の部屋に戻りました。
シヴァーナンダ・アーシュラムの初日はこうして終わりました。
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by preman9798 | 2011-01-11 09:38 | Comments(0)