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長年学んできたヨーガと大好きなインドの話です


by preman9798
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今年を振り返って

今年一年を振り返ってみたいと思います。

わたしにとって何より大きな出来事と言えば、長年の希望だった『ヨーガ事典』を出すことができたことです。
正直、出版はあきらめかけていたのですが、代々木UTLの仲立ちにより話が進み、BAB出版より出すことができました。
そのUTLでは、ハタ・ヨーガクラスに加え『インドの叡智』をテキストに学習を行うようになりました。
ティチャーズ・トレーニングコースの哲学も担当することになりました。



池袋勉強会では、『インドの叡智』に続き、『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』を学び始めました。
この勉強会に参加してくださっているメンバーは、ほとんどがヨーガ・インストラクターの方たちです。
Oさんをはじめ数名の方が、ボランティアで教室のお世話をしてくださっています。
また、『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』の各章こどに、きちんとしたテキストを作ってくれています。
皆さんお仕事が忙しいのに申し訳ありません。



今年は青森県にもよく行きました。10回近く行ったのではないでしょうか。
東京の教室と比べると、やや年配の方が多いのですが、『インドの叡智』の授業をみなさんとても熱心に聞いてくださいます。
来年の夏は、「ねぶた」のときに授業をするように計画してくださっているのですが、何しろ青森県内のホテルがまったく取れないということで、実現は難しいようです。
そういえば、八戸ではB級グルメで有名になった「せんべい汁」も食べることができました。
リンゴもおいしいです。
S先生、NさんSさん、大変お世話になりました。



足元のヨーガ・サンガティの教室は、相変わらずといったところでしょうか。
中でも八雲教室は、ヨーガを教えているベテランの人もいて、とても活気があります。
ただ、少し教室が狭いので生徒さんたちにはご迷惑をおかけしています。
来年は、もう少しヨーガ・サンガティに力を入れたいと思っています。

もうひとつの足元、Y.L.S.ですが、ここ2、3年はずっと『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』を学んでいます。
プラディーピカーは、第4章まであるのですが、第4章はまだ一部しか訳していません。
忙しくて、ゆっくりと腰を落ち着けて訳す時間がないのです。
しかも、わたしはあまり英語ができません。
こんな時、もっと英語ができたならばどれだけ楽かと思ってしまいます。

Y.L.S.の狛江校では、今年の後半から定期的なサット・サンガを行うようにしました。
具体的には、わたしの大好きなシヴァーナンダさんの話をし、キールタンを行うというものです。
ヨーガというとアーサナだと思っている人にとっては、実技のないサット・サンガは少し物足りないと感じているかも知れません。
来年は、今までとは違う形でY.L.S.の活動やサット・サンガを行う予定です。


わたし個人というよりも、わたしの仲間たちにとって今年最大のイベントが、スヴァーミー・ヴィシュヴァルーパーナンダジーの来日でした。
わたしの友人、川崎あき子さんとともにインドはリシケーシより来日されました。

おかげ様でいくつかのセミナーや勉強会を行うことができましたが、遠くは青森にまで行っていただきました。
そして、青森の人たちお世話で、スヴァーミージーと川崎さんはあの下北半島の「恐山」まで行ったということです。
面白いのは、わたしたちの一般的な印象とは異なり、スヴァーミージーは「恐山」はとてもよい雰囲気のところだということです。
わたしは何となく不気味な感じがしたのですが…。

これも今年の後半になってからですが、シヴァーナンダさんの金言を、今はやりのツイッターで配信することもできました。
と言っても、正直わたしは扱うことができないので、UTLのKさんにお任せしているのです。
わたしはシヴァーナンダさんの言葉を訳し、Kさんに送るだけなのです。
シヴァーナンダという聖者さんのことを、一人でも多くの人に知ってもらいたいと思う気持ちをずっと持ち続けています。


さて、来年、もっと充実した年にしたいと思います!

よろしくお願いいたします。






わたしの初めてのインド・19

デリーからリシケーシに向います。


●初めてのリシケーシへ
12月16日。
昨日デリー空港に出迎えたOさんと、11時にルフトファンザのビルの前で待ち合わせました。Oさんはすでに来ていて、帰りの便のリコンファームを済ませていました。その後、コンノート・プレイスやジャンパト通りにあるお土産さんを観て回りました。ボンベイとはまた違った雰囲気で、結構安いものもあり、政府系のお土産店には品物も良いものがありました。Oさんが両替をしなくては、というので銀行へ。昨日、わたしが貸した金額+予定外の一泊分ということで、150ルピーを返してもらいました。
近くのお店で昼食を摂り、オールド・デリーのチャンドニー・チョークへ。慣れないと、このチャンドニー・チョークは男の人でも少し恐いのですが、Oさんは平気なようで、大通りから一本入った狭い路地の中を歩いていきます。とくにシク教の寺院では熱心にお参りをしていました。
明朝5時に「ホテル・オベロイ・マイダンス」で待ち合わせして、いよいよリシケーシに行くことに。
明日は朝早く出発しなくてはならないので今夜のうちにホテルの支払いを済ませ、4時に起こしくれるようにフロントに伝えました。

12月17日。
3時30分に起床。フロントに4時に起してくれと頼んでいたのに、起こしに来ませんでした。インドの安宿ではこういうことが良くあります。しかし、特技というよりもわたしの性質なのでしょうか、目覚まし時計がなくても、よほど疲れてでもいない限り起きたいと思う時間に起きることができます。たとえ、目覚ましを掛けていても、いつもその少し前に目が覚めてしまいます。この日もそうでした。
部屋を出てフロントに行くと、ホテルの従業員たちはまだ寝ていました。安宿では、ホテルで働いている人たちはみんなロビーやフロントの前などで毛布に包まって寝ていたりします。従業員用の部屋などないのが普通です。なぜ4時に起こさなかったのかと文句を言いながら、ホテルを出ると、まだ暗い街中を急ぎました。
早朝の乗り物の交渉は、サイクル・リキシャもオート・リキシャもまだ、あまり走っていませんので、乗るほうにとっては不利になります。あまり値段交渉にてこずると、待ち合わせに遅れてしまいます。ようやくサイクル・リキシャに乗ったのは良いのですが、途中まで来るとホテルを知らないと言い出しました。乗るときにちゃんと「ホテル・オベロイ・マイダンス」と言ったのに、知らないと言い出すのです。腹が立ちましたが、時間がありませんので文句も言わず急いでオート・リキシャに乗り換えました。そのおかげでなんとか待ち合わせ時間には間に合いました。遅れたら、Oさんに何を言われるか分かりません。

Oさんは佐保田先生のもとでヨーガを学んでいることを誇りに思っています。それはそれで結構なのですが、東京のヨーガを少し軽んじている様子が言葉の端々に感じられます。しかし、わたしにも東京でヨーガを学んでいるというプライドがありますし、わたしの師である田原先生や藤田先生の顔に泥を塗るようなことは絶対にできません。他でヨーガを学んでいる人との接触は、若干の緊張と自分のヨーガを再認識するきっかけを与えてくれます。今まで一人で自由気ままにインドを歩いていましたが、これからは言動に少し気をつけないといけないと思いました。

「ホテル・オベロイ・マイダンス」に着くと、Oさんがフロントともめていて、ドルからルピーへ替えたときの両替シートが見つからないため、ルピーでの支払いができないと言うことでした。たどたどしい英語で何とか説明して、ようやくリシケーシ行きのバス・ターミナルへ向うことに。

リシケーシ行きのバスが出るのは、カシミーリー・ゲートの近くにあるI.S.B.T.(インター・ステート・バス・ターミナル)という大きなバス・ターミナルです。まだ暗い早朝から大勢の人でごった返しています。ものすごい人です。外国人らしい人は一人もいません。インド人が大きな荷物を持って、ターミナルの中を忙しそうに歩き廻っています。バスを待っている人たちなのでしょうか、外では焚き火をしています。あたり構わず、男の人が立小便をしています。そのすぐ横では地べたに紙を敷いてバナナやリンゴを並べて売っています。
小さな案内所のような小屋があり、そこで切符も売っていました。リシケーシ行きの切符は、数十ルピーだったような気がします。デリーからリシケーシまでは二百数十キロ、たしか6、7時間掛かると聞いています。たしかにバスは安い乗り物に違いありません。
リシケーシにはバスでも、鉄道でも、タクシーでも、飛行機(デラドン行き)でも、歩いてでも行くことが出来ます。わたしの場合、最近はタクシーや車をチャーターして行くことが多いのですが、この最初のインド旅行ではバスでの行き方しか分かりませんでした。しかし当時は、体力はあってもお金がありませんでしたので、バスが分相応だったのかも知れません。

バスの行き先はヒンディー語のデーヴァナーガリー文字で書かれています。今ならば簡単な文字程度は読めますが、当時はまったく分かりませんでした。何人もの人に聞きながらようやくリシケーシ行きのバスに乗りました。お腹も少し減っていましたが、リシケーシまでの道中、何回休憩があるのか分かりませんので、なるべく飲食は控えたほうが良いと判断しました。
5時30分発。あたりはまだ真っ暗です。早朝だったせいか、乗客は半分くらいしか乗っていません。バスが走り出してからわかったのですが、ものすごく寒いのです。きっと窓がしっかりと閉まらないので隙間風が入ってくるのでしょう。バスはクラクションを鳴らしながら路線バスとは思えないほどスピードを上げて走ります。寒さは半端ではありません。震えている日本人を見かねたのか、車掌さんが親切にも毛布を貸してくれました。それでも地平線から大きな太陽が昇ってくるまでの一時間あまり、震えは止まりませんでした。
途中、おばあさんがバスから降ろされるというトラブルがありました。雰囲気から察すると、どうも無銭乗車のようです。車掌は大きな声で怒鳴ると、何もないところでおばあさんを降ろしてしまいました。わたしたちに毛布を貸してくれた親切な車掌さんとは思えないほど、凄い剣幕でした。今思えば、バス代くらいたかが知れたこと、出してあげればよかったと後悔しています。

バスは途中、ドライブインと呼ぶには程遠い小さな茶店で休憩をしました。トイレはありますが、決してきれいとはいえません。ここで簡単な朝食も取れますが、変なものを食べてお腹の調子が悪くなってはたいへんですので、リシケーシに着くまでは我慢することにしました。
さらにバスは走り、あたりもすっかり明るくなりようやく車内も暖かくなったころ、木々の合間に青いガンジス河が見え隠れしてきました。
そして、5時30分にデリーを出たバスは、10時30分にハリドヴァールに着きました。ここまで来れば、もうリシケーシは目と鼻の先です。
ここでまた小さなトラブルがおきました。なぜかこのバスでリシケーシまで行かれないというのです。理由はよく分かりません。おしゃべり好きなまったく関係のない人たちまで話に加わってきて、何がなんだか分からなくなってしまいました。仕方がないのでバスを降り換えて、リシケーシのバス・スタンドまで。

リシケーシの街中にあるバス・スタンドからシヴァーナンダ・アーシュラムまでは結構距離があります。重い荷物を持って歩いて行ける距離ではありません。トンガという馬車で行くことに。トンガは馬が引っ張る小さな乗合馬車で、お客は向き合ったシートに三人くらいずつ乗るのです。
今でこそリシケーシもオート・リキシャが走り、喉が痛くなるほど空気が汚れていますが、30年前のリシケーシでの交通手段の主役はトンガだったのです。鈴を鳴らしながら軽やかに走るトンガはとてものどかで情緒のある乗り物でした。よくアーシュラムからリシケーシの町まで、このトンガを利用したものです。
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by preman9798 | 2010-12-29 12:49 | Comments(0)

ツイッター

今流行りのツイッターを始めました。
わたしの大好きなスヴァーミー・シヴァーナンダの金言集を一つずつ発信します。
ぜひ、見てください。
@sivananda_jp
で検索してください。

12月も下旬になり、今年のレッスンや勉強会も一つずつ終わっていきます。
昨日はヨーガ・サンガティ八雲教室と代々木UTLのレッスンが終わりました。
八雲は昔からの教室で、気心の知れた仲間たちとのヨーガ教室です。
ベテランの方も多くヨーガを教えている人たちもいます。

代々木UTLのほうは、ご縁があって一昨年からお手伝いさせていただくようになった、
若い人が多いヨーガ・スクールです。
UTLのおかげで、今年は『ヨーガ事典』を出すことができました。
来年、やはりUTLのお力を借りてまた新しい本を出版したいと思っていますが、
もう少し具体的になったらお知らせします。






わたしの初めてのインド・18

カイヴァリャダーマのパート・2です。ローナワラを出て、いよいよリシケーシに向います。


●ローナワラからリシケーシへ
12月10日。
いよいよ13日にはボンベイからデリーに行き、さらにリシケーシに行くのですが、実はデリーで、ある人を迎えてその人を連れてリシケーシに行かなくてはならないのです。
13日にしたのは、京都から来るOさんというその女性を15日にデリーで迎えなくてはならないからでした。Oさんは佐保田先生のお弟子さんで、一人でインドに来ることになっていました。女性の一人旅ということもあり、きっと佐保田先生から井上先生に面倒を見てくれるようにと連絡が行ったのだと思います。しかし、井上先生もカイヴァリャダーマの試験や何かがあるらしく、デリーまでは迎えに行けないということで、たまたまリシケーシに行く予定だったわたしが出迎えることになったのです。
わたしとはまったく面識もないので、どのような顔かたちの人なのか皆目分かりませんので、井上先生に年恰好など特徴をお聞きしました。Oさんの方もきっと、わたしの年恰好や特徴を佐保田先生から聞いているはずです。
井上先生や前田先生がおっしゃるには、そのOさんという女性は霊能力者で、佐保田先生もたいへん信頼されているということです。そういえば、佐保田先生が東京でお話をされたときに、女性の霊能力者のお話しをされたことがありました。そのときは名前を言われなかったのでわたしもそれ以上のことは覚えていないのですが、今回リシケーシにお連れしなくてはならないのはどうもその方のようです。
正直言って、一人旅に慣れていたので一緒にリシケーシに行くのは面倒くさいという気持ちもありましたが、お世話になっている井上先生や前田先生に頼まれては断れません。それに、どうせ近々わたしもリシケーシに行くことになっていましたし、霊能力を持っているという人にまったく関心が無かったと言えば嘘になります。

モーニングティーの薬草茶を飲み、少し休んでからアーサナ。
部屋にいるとどうしても寝てしまうので、近くにあるという観光地カルラ・テンプルに行ってみることにしました。カイヴァリャダーマを8時過ぎに出て、バス停に。しかし、カルラ・テンプル行きのバスは9時に出るとのこと。まだ30分以上もあるので、近くの食堂でプーリーとチャイの朝食。
バスは満員でした。土曜日のせいか制服のパンジャビーを着た女子学生たちの集団が乗っていて、大きな声でおしゃべりをしたり歌を歌ったり、とても騒々しくうるさかった。
バスはわずか30分ほどでカルラ・テンプルに着きました。以外に近くにあったのです。しかし、カルラ・テンプルは山の上にあるので、ここから歩かなくてはなりません。暑い中を長い階段を上って行きましたが、正直いってたいしたことはなく、どのような寺院だったか記憶もあいまいです。また長い階段を下りてきて、サトウキビ・ジュースを飲みました。
帰りのバスもあの女学生たちと一緒になりました。バスの本数が少ないので、どうしても同じになってしまうのでしょう。

12月11日。
朝、このカイヴァリャダーマにケーチャリー・ムドラーを実践している人がいるというので会いにいきました。
ケーチャリー・ムドラーには二通りの方法があります。一つは舌を裏返しにして上顎やさらに奥の軟口蓋にあてる方法。もう一つは、舌の裏の筋を切り、舌を長く伸ばしてそれを軟口蓋よりももっと奥の入れるという方法です。これによってアムリタの流れを絶ち、その結果、長生きができるというのです。
これから会う人は後者のケーチャリー・ムドラー、つまり舌の裏の筋を切る方法を行なっているというのです。
ケーチャリー・ムドラーに関しては、ハタ・ヨーガの教典を読んで知識としては知っていましたが、実際に行なっている人がいるなんて、正直言って信じられませんでした。
そのヨーギーは学生宿舎のあまりきれいとはいえない部屋に住んでいました。わたしはケーチャリー・ムドラーを見せてくださいとお願いすると、以外にもあっさりと了解してくれました。しかし、実際に見せてくれるまで数十分を要しました。

ヨーギー(名前は忘れてしまいました)は、小さな木箱の上に古ぼけた鏡を置きました。いよいよ始まるのかと、ドキドキしながらヨーギーの一挙手一投足を瞬きもせず見つめました。日本に帰ってしまったら、ケーチャリーを見るチャンスなど二度とありません。
ヨーギーはゆっくりとした動作で髭そり用の剃刀と水の入った容器を出しました。わたしはこの剃刀で舌を切っていくのかと思い、その痛さを想像しました。すると、彼は次に石鹸を取り出すと顔に塗り、鼻の下やあごに泡を立てはじめました。何かへんです。彼は、わたしが瞬きもしないで見つめているのに、なんと髭を剃り始めたのです。緊張の極みにいたわたしは、いっぺんに拍子抜けしてしまいました。
長い時間をかけて髭を剃り終わると、今度は小さなナイフを取り出しました。手製のようです。ヨーギーは舌を手で挟むと、ゆっくりと伸ばし始めました。筋肉の固まりだからでしょうか、犬の舌のように急に伸びたり引っ込んだりはしません。長く伸ばされた舌は、鼻の頭やアゴのところまで届きます。やがて舌を裏返しにすると、どこの筋だか分かりませんが、ナイフで少しずつ切り始めました。うっすらと血が滲んでいます。よだれもポタポタトと流れ落ちています。聞くところによると、19年間毎日少しずつ切っているということでした。毎日切らないと、元に戻ってしまうのでしょうか。
こうして長く伸ばした舌を軟口蓋のさらに奥にある穴に入れて、アムリタの流れを防ぎ、長寿を得るというのです。そのヨーギーのグルは、このケーチャリーのおかげで100歳を超えた今もベナレスに元気でいると言っていました。
そのヨーギーはケーチャリーのほかにも、胸に巻いた鎖をある呼吸法を使って切ることができると言って、ベッドの下からジャラジャラ鎖を引っ張り出しました。さすがに鎖切りまでは見ませんでしたが、ケーチャリーの一部始終をじっと見ていたわたしは少し気持ちが悪くなり、ヨーギーにていねいにお礼を言うと彼の部屋を退散しまた。この貴重なケーチャリー・ムドラーの写真は拙著『インドの叡智』の200ページに掲載してありますし、大きく伸ばした写真も数枚ありますので、機会がありましたらぜひ皆さんにもお見せしたいと思います。
部屋に戻ると、なんだか気分が悪くなり熱が出て下痢をしてしまいました。先ほど見たケーチャリーのせいではないのでしょうが、吐き気がして、寒くて寒くて震えが止まりません。やがて熱が出ました。立とうと思っても膝にまったく力が入りません。井上先生が毛布やお湯を持ってきてくださいましたが、その夜は身体中が痛くて眠れませんでした。

12月12日。
昨夜から気分が悪く、最悪。まだ熱も下がらない。足腰に力が入らない。明日はデリーに行かなくてはならないのに大丈夫だろうか、とても不安になりました。昨日、ケーチャリー・ムドラーなんか見なければよかった…。

12月13日。
昨日あれだけひどかったのに、今朝起きたら、だいぶ気分が良くなっていた。なんだろう。インドではこういう体験を何回かしました。突然、熱や下痢や吐き気がしたと思うと、二三日後にはぴたっと治るのです。
井上先生に、デリーで出迎えるOさんの特徴をもう一度確認し、カイヴァリャダーマを出ました。
井上先生や森さんも、後日、Oさんとリシケーシで合流することに。
ローナワラ駅10時40分発の電車でダーダルへ、ここで乗り換えてサンタクルツへ。もうこのくらいの乗り換えは、なんでもなくできるようになりました。そんな自分が少し嬉しくもあります。でもまだ体調が完全ではないので背負っているリュックが重く感じます。サンタクルツから空港へはタクシーを使いました。カイヴァリャダーマの質素な食事が続いていたので、空港のレストランで少し良いものを食べました。病み上がりだけれど、ビールも飲んでしまいました。そういえばずっと飲んでいなかったような気がします。リシケーシに行ったら聖地ですのでアルコール類は飲めません。今のうちです。乾杯!

デリー空港には夜の9時に着きました。ベルトコンベアーから出てきたバッグがどこかに引っかかったのか少し壊れていましたが、別に中身が取られたわけではないようです。空港から市内まではバスで行き、市内からオートリキシャでYMCAに。一ヶ月前、前田先生と別れてデリーに来て最初に泊まったのがYMCAでした。しかし、今回は満員ということで泊まることが出来ませんでした。結局、「シティ・ホテル」というホテルに泊まることに。コンノート・プレイスからは少し離れていますし、50ルピーと高かったのですが、何しろ病み上がりで少し疲れていたので、今日はまあまあのクラスのホテルでゆっくりと休むことに。

12月14日。
体調はほぼ完全に戻ったようです。朝、部屋でヨーガをやった後、ニューデリー駅の前に延びるメイン・バザールへ。ここは狭い路地がずっと続いていて、その両脇にお店が並んでいます。ありとあらゆるお店があります。安宿や安食堂もたくさんあり、ヒッピーのような白人がたむろしていました。とても面白そうなところです。メイン・バザールの入り口にフルーツ・ジュースを売っているお店があり、美味しそうなのでオレンジ・ジュースを飲みました。自分で注文をしたフルーツを目の前で、ミキサーでジュースにしてくれます。インドに来て1ヶ月、もはやコップの汚れやハエなどは気にならなくなっていました。
バザールの奥の方に「メトロポリス」という、このあたりでは比較的大きなレストランがありました。実は、ここからさらに奥に行くと、左側に「ラーマクリシュナ・ミッション」の支部があるのですが、残念ながらそのときはまだこんなところに支部があるとは知りませんでした。

Oさんが来るのは明日の夜です。それまで少しデリーで時間をつぶさなくてはなりません。コンノート・プレイスを散歩し、ツーリスト・オフィスでリシケーシ行きのバスのことを訪ねました。相変わらず感じが悪い係員の態度にはほんとうに腹が立ちます。
「ジャパン・インフォメーション・センター(J.I.C.)」に手紙を取りに行きました。日本からの手紙をデリーで受け取るときは、このJ.I.C.で受け取ることができます。コンノート・プレイスから少し離れた、回りを緑に囲まれた閑静な住宅地の中にあります。J.I.C.の建物の中に小さな郵便受けがあり、一つ一つの郵便受けにローマ字でA~Zと書かれています。成瀬ならば頭文字はNですので、Nのところを探します。うれしいことに日本から六通も手紙が届いていました。家から二通、他の四通はわたしがヨーガを担当している「現代の寺子屋塾・市ヶ谷塾」の生徒たちからでした。
以前にも書いたと思いますが、手紙をもらうのが一番嬉しいのです。今でこそ、インドのどんな田舎に行っても簡単に国際電話が掛けられますし、サイバー・カフェではパソコン・メールもやり取りできますが、当時は手紙が唯一の通信手段だったのです。
生徒の一人がくれた手紙の中にさまざまな情報が書かれていました。きっといろいろと調べてくれたのでしょう。わたしも夜、ホテルの部屋で四通の手紙を書きました。
こうしてインドで受け取った家族や生徒たちからの手紙は、わたしの宝物として今で大切に取ってあります。

12月15日。
散歩の途中、車でコーヒーを出しているお店があったので飲むことに。コーヒーは久しぶりです。すると、向こうから異様な人が二人歩いてきました。はじめ少数民族の人だと思ったのですが、派手なパンジャビーに、おかっぱ頭。仕草も女っぽく、口紅や濃いお化粧をしています。しかし、その顔はどう見ても男なのです。そのときは、インドにもオカマがいるのかとたいへん驚きました。
しかし、その後、インドには「ヒジュラ」と呼ばれる、女装をして歌ったり踊ったりして生活をする人たちがいて、独自の文化を持っているということを知りました。今思うと、わたしがデリーで見た女装の人たちは、きっと「ヒジュラ」だったのではないでしょうか。

夜9時ごろ、ホテルを出てOさんを出迎えるために空港に。しかし、すでに回りが暗くなっていて方向が分からなくなってしまいました。仕方がないのでコンノートにある「コーヒー・ハウス」というお店に入って、飲みたくもない高いコーヒーを飲んで空港行きのバス停を教えてもらうことに。しかし、行ってみると15分前に最終バスが出てしまったとのこと。自分のことならば明日に変更すればよいのですが、人を出迎えるのですから行かないわけにはいきません。結局オートリキシャで空港に。オートリキシャはタクシーと違ってドアがないので、走ると寒い夜風をまともに受けてしまいます。時間がないので、震えながら空港へと急ぎました。ようやく良くなった体調がまた悪くならなければよいのですが…。
Oさんの乗った飛行機は少し遅れはしましたが無事に着きました。わたしのほうも間一髪、間に合い、Oさんを出迎えることができました。
Oさんは、ローナワラで井上先生や前田先生からお聞きした特徴とは違って見えました。言葉だけでイメージするその人の特徴と言うのは当てになりません。しかし、中年の日本人女性は他に一人もいませんので思い切って声を掛けました。
簡単な挨拶をして、とりあえずはデリー市内へ。タクシーで35ルピー。Oさんは両替をしていないので、わたしが立て替えることに。さらに、50ルピーを貸してあげました。
明日、11時にルフトファンザ空港の事務所の前で待ち合わせることにして、それぞれのホテルに帰りました。
Oさんの印象は、50歳代という年齢にしてはとても若く、夜一人でインドに着いたからか、少し落ち着きがないように見えました。一見しただけでは、霊能力者という雰囲気は見受けられませんでした。と言っても、他に霊能力者など知りませんので、比べようがありませんが。

明後日は、Oさんをリシケーシまで連れて行かなくてはなりません。
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by preman9798 | 2010-12-23 09:20 | Comments(0)

八戸と池袋の勉強会

13日(月)に八戸に行ってきました。
3日に青森に行ったばかりなので、今月は青森県に二回行ったことになります。
自分ではずっと「天気男」だと思っていたのですが、二回とも雨でした…しかも寒い!
使い捨てカイロを持っていって正解でした。

ヨーガ・サンガティ八戸教室は朝と夜のクラスがあり、二クラスとも『インドの叡智』を学んでいます。
生徒さんには年齢の高い方もいて、重たいこの本を持ってくることさえ大変だと思いますが、皆さんとても熱心に学んでくださっています。

12月ということもあり、授業が終わった後は忘年会でした。
青森も八戸もおいしいのはリンゴだけではありません。
漁港がありますので魚介類も豊富です。
八戸の皆さん、とても楽しい忘年会をありがとうございました。


そして、昨日(16日・木)は今年最後の『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』の学習会でした。
会場はいつもの池袋ではなく「代々木八幡区民会館」での授業となりました。
今回は、横須賀からTさん、そして札幌からAさんのお二人が参加してくださいました。
お二人はヨーガ仲間であり、ヨーガの指導者でもあります。
以前『シヴァーナンダ・ヨーガ』を読み、シヴァーナンダさんに関心をもってくださったとのことでした。ありがとうございます。

青森もそうですが、地方は東京と異なり、ヨーガを深く学ぶ施設や機会が限られているようです。地方に行って熱心なヨーガ仲間に話を聞くと、それをとても痛感します。
その点、東京は学ぶ気さえあれば、いろいろなところで様々なことを学ぶことができます。

『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』の第1章もあと二回で終わります。
そろそろ、第2章・プラーナーヤーマ編のテキスト編集に入ります。
第1章のテキストはOさん素晴らしいのを作ってくださいました。
Oさん第2章もよろしくお願いいたします。





わたしの初めてのインド・17

今回はカイヴァリャダーマと井上和俊先生について話をしたいと思います。この旅行ではいろいろな方にお会いしましたが、わたしにとって井上和俊先生はたいへん影響を受けた先生の一人です。そのころのローナワラには、「アナン・ニケータン」に前田先生や久保象永さん、カイヴァリャダーマには井上先生や関西の人がいて、このインドの田舎町には、当時何人もの日本人が滞在していました。

●カイヴァリャダーマ
カイヴァリャダーマは、スヴァーミー・クヴァラヤーナンダ(1883~1966)が創設した施設で、
ヨーガを科学的・医学的に研究する施設として知られています。そんなことから日本では「ヨーガ大学」と呼ばれていたのでしょう。
カイヴァリャダーマは、ローナワラ駅からバタバタ(オート・リキシャ)で数分行ったところにありました。インド的な距離感では歩いても行ける距離です。カイヴァリャダーマの広い敷地には校舎や、病院や、図書館や郵便局などがあります。

前田先生に会いに来たヴィラジェシュヴァというスヴァーミーは、どうしても「アナン・ニケータン」に行きたいということで、前田先生や象永さんたちと一緒に山に帰って行きました。そして、気に入れば長期滞在したいということでした。
わたしはせっかくカイヴァリャダーマを訪れたので、みんなと一緒に山には帰らず、ここに泊めてもらうことにしました。明日はボンベイに行くので、「アナン・ニケータン」に戻ってしまうと、また出てくるのに時間がかかってしまうという理由もありました。
井上先生を通して担当の人に訊いてもらうと、部屋は空いているとのことでした。ホテルではないので、通常ならば短期の滞在はできないのかも知れませんが、前田先生や井上先生のおかげで泊めてもらえることになったのです。

当時、カイヴァリャダーマには井上先生をはじめ、いろんな国の人がヨーガ留学をしていました。彼ら留学生たちはカイヴァリャダーマの敷地内にある病室を宿舎として使っていました。
病院ですから、喘息などのヨーガ的治療を受けるために長期滞在して人もいますが、そんな患者さんたちと一緒に滞在していました。病室ですので当然、ベッドもホテルや家庭にあるようなベッドではなく入院患者用のベッドでした。
ただ、病院といってもヨーガ的治療ですので、通常の病院のように看護師さんが働いていたり、やたら薬品の臭いがするという雰囲気ではありません。その空いている部屋(病室)にわたしも泊めてもらうことになったのです。
管理人は、メガネを掛けサーリーを着たインド人女性で、みんなからシスターと呼ばれていました。あまり愛想の良い人ではありませんでしたが、みんなからは何かと頼りにされていました。

12月5日。
昨日は、カイヴァリャダーマに泊めてもらいました。5時半に起床。きっとこの建物(病院)の中にアーサナを行なうホールみたいなものがあるはずなのですが、様子が分からないので、今朝は自分の部屋でヨーガをすることに。
また、カイヴァリャダーマでは、朝お茶が出るのですが、いわゆるインドのチャイではなく、薬草茶のようなお茶です。身体には良いのかも知れませんが、あまり好みの味というわけにはいきませんでした。
ボンベイに行くために、7時半にカイヴァリャダーマを出てローナワラ駅に。朝食に、プーリーというチャパティを油で揚げて膨らませたものを食べました。これにカレーをつけて食べます。
電車は二等席でしたが、上手く坐れることができ、ボンベイまでは快適に行くことができました。いつもこうやってスムーズにことが運ぶと良いのですが。
ボンベイに着くとまず、13日のデリー行きの飛行機のチケットを買いました。45ドル。ちょっと痛い出費ですが、電車で行くよりもずっと早いので仕方がありません。
ボンベイ市内のホテルは高く、部屋もなかなか空いていないので、インドで最初に泊まったサンタクルツの「ラブリー・ホテル」に泊まることに。ボンベイからサンタクルツまでの電車はものすごく混雑していて、東京で言えば、山手線や中央線のような通勤電車なのでしょうか。車内は男ばかりです。今は、日本でも電車によっては女性専用の車両がありますが、インドでは昔から女性専用の車両というものがあるのです。
夜は、ホテルの近くのインド版縁日を楽しみました。相変わらず、裸電球の灯りの下に屋台や露店のお店がずらっと並んでいます。サトウキビのジュースを飲んだりつまみ食いをしながら、しばらくの間散歩を楽しみました。

12月6日。
なぜかこのサンタクルツという何もない町が気に入り、たいした用事もないのに、町中をぶらつくことに。暑さで頭がボーっとしてきます。
町を歩いていると、一家で大道芸のようなことをしているところにぶつかりました。何人かの人が輪を作るようにしてその大道芸を観ています。人垣の中では、父親らしい人と5歳くらいの小さな女の子が何かをやっています。女の子は汚れて真っ黒になったワンピースに裸足でした。わたしも何気なく観てみると、父親らしい人が持つ直径5、60センチほどの輪の中を、女の子が前転しながらくぐっています。ただそれだけです。それを何回も繰り返すのです。そんな芸ともいえないような芸よりも、この子は学校には行かないのだろうかと、ということが頭に浮かんできました。
あまりにもくだらないので、歩き始めると、その女の子が飛んできて金をくれと手を出しました。「わたしたちの芸を観たんだから、いくらか置いて行け」と言っているようです。
わたしは「ふざけるな、そんなくだらない芸に金を払えるか」という顔をして立ち去ろうとしましたが、何十メートルも付いてきます。ついに根負けして、1ルピーを女の子に上げました。すると、たったこれだけかというような顔をすると、礼も言わず戻って行ってしまいました。
暑いので思考力もなくなってきます。日本にいたときのように、ちょっと喫茶店やデパートで涼むということもできません。ラッシーや炭酸飲料のリムカやサムアップなど、一時間おきぐらいに冷たいものを飲みたくなります。

12月7日。
朝のヨーガ。朝食は例によってオムレツ、バナナ、トースト、チャイ。8時55分のローナワラ行きの電車に乗るため、40分にホテルをチェック・アウト。サンタクルツからターダルという駅へ、ダーダル駅で乗り換えてローナワラに。
ここでまたトラブルが起きました。サンタクルツからダーダルへの満員電車の中で、わたしはお金を掏られてしまいました。パジャマという、ゆったりとしたズボンをはいていたので、いつ掏られたのかまったく気が付きませんでした。大きな額の紙幣は首から掛けたパスポート入れに入れて肌身離さず持っているので無事でしたが、財布の中には80ルピーほど入っていたはずです。80ルピーでもわたしにとっては大金です。しかし、それ以上にショックだったのは掏られたという事実です。スリのかもにされるほど、自分はバカ面をしていたのだろうか。悔しいやら情けないやら腹立たしいやら、なんともいえない気持ちです。たしかに車内は満員で、インド人の乗客に囲まれて身動きが取れなかったとはいえ、まったく気が付きませんでした。さすがはプロ、などと感心している場合ではありません。
ローナワラに着くと、お昼を過ぎていました。近くの食堂でプーリーとラッシーとチャイの昼食を摂りました。駅の売店で鉄道の時刻表を買おうと思ったのですが、置いていないとのこと。一般のインドの人たちは、きっと時刻表を使うほど頻繁に鉄道を利用することなどないのでしょう。こんなことなら、ボンベイで買っておけばよかったと後悔しても仕方がありません。
カイヴァリャダーマまで戻ってきたら、ちょうど井上先生が見知らぬ日本人と話をしていて、彼らを案内するとのこと。TBSの人たちで、インドのヨーガをテレビで紹介するので、そのための取材だと言うことです。テレビ局の人たちは、佐保田先生のことも知っていました。そういえば、インドに来る前に、佐保田先生がインドにいらっしゃるというようなことを聞いていたのですが、きっとその番組なのかも知れません。おそらく佐保田先生ご自身は、何かの理由で来られなかったのでしょう。
また、カイヴァリャダーマの一室を借りることに。午後は、たくさん溜まってしまった洗濯をしました。「アナン・ニケータン」では、お湯はたいへん貴重なのでめったなことでは使えませんが、カイヴァリャダーマではシャワーも洗濯も、蛇口をひねればすぐにお湯が出るのです。
ここで日本人の若い女の子を紹介されました。カイヴァリャダーマの正式な学生ではなく、わたしと同じ、短気の滞在ということでした。彼女は森さんという、まだ20歳前後の女の子で、驚いたことに一人でインドに来たということです。話を聞くと、今「アナン・ニケータン」にいるヴィラジェシュヴァさんが気に入っていて、自分も後で「アナン・ニケータン」に行きたいということでした。彼女はヴィラジェシュヴァさんのことをなぜか「おっさん、おっさん」と呼んでいました。
後で知ることになりますが、彼女は日本では家庭問題がいろいろとあり、インドに来たということでした。そういう事情もあってか、周りの大人たちにちょっと反抗的なところもある反面、どこか寂しそうな印象も受けました。

ローナワラは避暑地といえども日中は暑いので、みんな自分の部屋で昼寝をします。怠けるということではなく、暑い土地ならではの生活の智恵なのでしょう。
わたしも洗濯を済ませると、自分の部屋でぐっすりと寝てしまいました。

12月8日。
朝、6時に起きてモーニングティーを飲みにダイニングに行ったのですが早すぎたせいか、井上先生も森さんもまだ来ていませんでした。
モーニングティーの後はアーサナの時間です。アーサナのホールに行くとインド人の先生がいらっしゃいました。ホールには真ん中に三分の二ほどカーテンが引いてあり、男の人と女の人とは分かれて行なうようになっていました。先生は左右の双方から見えるように真ん中に坐っています。
面白いことに先生は何も指導をしてくれません。こちらが質問をしなければなにも言ってくれません。カイヴァリャダーマの正規の授業ではないので、なにも教えてくれないのでしょうか。
周りの人たちのやり方を見ると、とてもゆっくりとした静かなアーサナで、わたしが日本で学んでいたヨーガとほぼ同じスタイルのような気がしました。

アーサナの後は朝食です。ミルクとパンだけで、しかもおかわりはできません。
カイヴァリャダーマに来てからやたらと眠ります。今までにこんなに眠ったことはないと思うほどよく眠ります。井上先生や前田先生がそばにいらっしゃるという安心感からなのでしょうか。信じられないことに、昼食の時間も気づかず寝てしまいました。井上先生が声をかけて下さったそうですが、まったく気づきませんでした。
3時にティータイムがあり、その後井上先生に敷地内にある郵便局に連れて行ってもらい、アーサナの本を買いました。もちろん、ここカイヴァリャダーマから出ている本です。

病院なので仕方がないのかも知れませんが、ここの食事はわたしにとっては少し薄味過ぎました。粉末のにんにくを持っている人がいて、みんなはよくそれをかけて食べていましたが、わたしにはまったく口に合いませんでした。ですからときどき、町に食べに行くことがありました。

12月9日。
モーニングティーも飲まずに、ずっと部屋で寝ていました。アーサナには出て、またベッドへ直行です。ここ一両日の睡眠の取りかたは尋常ではありません。どうしてこんなに寝られるのか不思議なくらいです。眠る病気というのも聞いたことがありませんので、きっとインドに来て一ヶ月間の疲れが一気にやってきたのかも知れません。
3時半頃、ボーとした頭を切り替えるために散歩がてらにローナワラの町に。お菓子やスナックをつまみ食い。
明日は、近くのカルラ・テンプルにでも行くつもり。
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by preman9798 | 2010-12-17 09:53 | Comments(0)
3日(金)・4日(土)とヨーガ・サンガティ青森教室に行ってきました。
9月に行って以来、久しぶりの青森でした。
青森教室は年配の生徒さんが多いのですが、
皆さん『インドの叡智』を熱心に学んでくださっています。
その熱心さは、東京の若い人たちの多いクラスに引けを取りません。
そして、教室が終わった後は、12月ということで忘年会を行いました。

翌、4日は東北新幹線新青森駅開通の日です
青森駅から新青森駅とは電車で一駅、6分ほどあります。
どうしてもっと近くに新青森駅を作らなかったのでしょうか。

新青森駅はたいへんな人出でした。まるで東京のデパートのような人混みでした。
いろいろなセレモニーが行われていて、テレビ局の取材もあちらこちらで行われていました。
残念ながら、わたしにはインタビューがありませんでしたが…。

東京-青森間が早くなるはずの新幹線でしたが、わたしの乗った電車は強風のため仙台で足止め、結局だいぶ遅れての東京着でした。

少し先ではありますが、来年の8月のヨーガ・サンガティ青森教室は「ねぶた祭り」のときに行います。
もちろん、授業が終わった後は「ねぶた」に参加します。






わたしの初めてのインド・16

スリランカからインドに戻り、しばらくはローナワラに滞在することに。やはりここには、「アナン・ニケータン」があり、前田先生がいらっしゃいます。そのうえ、カイヴァリャダマには井上和俊先生が一年間の留学をされていました。インドをあちこち回って疲れたわたしにとって、ローナワラに戻ってお目にかかった両先生は、なによりも安らぎを与えて下さいました。
わたしの最近のインド旅行は北インドのリシケーシが根拠地のようになっていますが、この最初のインド旅行ではローナワラがたしかに「実家」のようなものでした。


●ボンベイ
11月30日。
マドラスの「ユース・ホステル」の回りは静かで、何もありません。ちょっと不便です。午後の便でボンベイに帰らなくてはならないので、観光に行くこともできません。散歩がてら近所をぶらぶらと歩き、時間をつぶしました。
バスでマドラスの空港に。空港に乗り入れるバスはないので、近くのバス停で降りて歩かなくてはなりません。少し道に迷ってしまったために、時間ギリギリで搭乗手続きを済ませることになりました。ただ、マドラスからボンベイは国内線ですので、面倒な手続きやトラブルはありませんでした。
ボンベイの空港に着いたのは夕方の5時半でしたが、ボンベイにはもう何度も来ているので、戸惑うことはありません。マリンドライブというきれいな海岸線を通って市内へ。
最初「インターナショナル・ゲストハウス」というホテルに行ったのですが満員ということでした。料金の割にはきれいなホテルでしたので、泊まることができず、ちょっと残念です。
次に、「インターナショナル・ゲストハウス」のフロントで教えてくれたホテルに行ったのですが、残念ながらここも満員でした。
仕方がないので、タクシーの運転手の知っているという安ホテルに連れて行ってもらったのですが、信じられないことにここも満員ということでした。
インドのいろいろな都市や町に行きましたが、そのホテルが気に入ったかどうかは別にして、泊まれないということはまずありませんでした。しかし、ボンベイは慢性的にホテルが少ないのか、いつもホテルを探すのに苦労します。
立て続けにホテルを3軒も断られ、ガッカリしていると、親切にもここのホテルの人があちこちに連絡をしてくれ、「スバ・ゲストハウス」というホテルに予約をしてくれました。
「スバ・ゲストハウス」は、あまりきれいとはいえないビルの三階にありました。小さなホテルで、庭もなければベランダもなく、部屋には窓さえもない、日本のビジネスホテルのような造りです。外にある看板を見なければ、表から見ただけではこの建物の中にホテルがあるなんてだれも気が付かないでしょう。
しかし、場所は「タージマハル・ホテル」の近くにあり、インド門にも近く、賑やかな商店街にも近く、ロケーションとしては最高でした。
どうも、お客がイスラーム教徒の人たちばかりなのをみると、きっとこのホテルのオーナーはイスラーム教徒なのでしょう。フロントの人がとても感じよく、シャワーやトイレは共同、食事なしの部屋代だけで一泊54ルピーでした。蒸し暑いボンベイですが、例によって天井には扇風機が付いているので、暑くて寝られないということはありませんでした。
ちなみに、このホテルは数年後、再びインドに来たときも泊まることになります。

ホテル探しに時間が掛かり、「スバ・ゲストハウス」に落ち着いたときにはすでにあたりは暗くなっていました。便利なところにあるので、レストランには事欠きません。中華料理店もあったのですが、夕食は「アリババ」というアラビア料理店に。シークカバブがとてもおいしかった。

12月1日。
狭い部屋なので、朝のヨーガがゆったりとできませんでした。それに、昨日は気が付かなかったのですが、部屋のドアの上の部分が少し開いていて、廊下の話し声が聞こえてくるのです。しかし、アラビア語なのか、ウルドゥー語なのか、何を言っているかまったく分からないのでそれほど気にはなりませんでした。
また改めてホテルを探すのがたいへんなので、今夜もこのホテルに連泊することに。フロントに訊くと、運良く部屋は空いているとのことでした。ついでに、フロントで朝飯を食べられるレストランを聞くと、隣のビルの1階が大きなレストランがあるということでした。観光客用ではなく、地元の人たちが利用するレストランのようです。大きなお店の中にテーブルがびっしりと並んでいます。椅子に腰かけると、隣の人とぶつかってしまうくらい窮屈な間隔で並べられています。しかし、小さなカップに入ったこの店のチャイは、今まで飲んだチャイの中で一番おいしいものでした。個人的な感想ですが、デリーや他のインドの町と比べると、ボンベイで飲んだチャイはどれもおいしかったような気がします。
ちなみに、南インドではコーヒーもよく飲まれていました。そういえば、南インドではコーヒー豆が採れると聞いたことがあります。しかし、コーヒーもチャイのようにミルクと砂糖を入れますので、日本で飲むようなコーヒー味や香りの強いものではありません。面白いことに、なぜかインドではコーヒーのことを「ネスカフェ」と言います。たしか、「ネスカフェ」というのは商品名ではなかったかと思うのですが…? 電車の中でもホームでも、売り子たちはみな「ネスカフェ! ネスカフェ!」と声をかけていました。

クルタとパジャマを作ってもらうことにしました。布地屋や仕立屋は、インドの町ならばどこにでもあります。もっともオーソドックスな白の綿で作ってもらうことに。2時頃にできるとのことなので、それまで暇つぶしに映画を観ることにしました。ボンベイは大都会なので、映画館も地方のものとは違い、とても大きくて立派な建物です。映画は、アジャイたちとガヤの小さな映画館で観て以来です。
ある映画館で「007シリーズ」をやっていました。自分でも、なにもインドに来てまで「007」を観ることもないと思ったのですが、なにしろインドの映画はガヤで懲りていますので、ここはハリウッド映画にしたのです。
映画館の中はガヤの小さな映画館とは異なりとてもきれいで、東京にある映画館とほとんど変わりません。しかし、料金だけは4ルピーと、日本とは比較できないほどの低料金です。
映画の内容も内容なので、ガヤの時のようにお客さんが歓声を上げたり口笛を吹いたりすることもありません。その点は、ガヤのほうがずっと面白かったと思います。
007シリーズの何作目かは分かりませんが、たしか主役のジェームズ・ボンドがワニの背中の上を渡って歩くシーンがあったのを覚えています。

昼飯は、以前前田先生に連れて行ってもらった「アポロ」というレストランに。安くて美味しい店です。前と同じように、チキン・ブリアニを食べました。
午後は市内観光を予定していたのですが、何となく体調が悪くなり、気持ちが乗らず、急遽取り止めに。ときには、こういうこともあります。
頼んであったクルタとパジャマを受け取り、ホテルに帰って寝ることに。

12月2日。
朝、チェック・アウトを済ませ、8時45分発ローナワラ行きの電車に間に合うように、ヴィクトリア・ターミナル駅へ。ちょうど一ヶ月前、この駅に来たときには不安でいっぱいでしたが、今の自分には多少なりとも余裕があるのが分かります。やはり、実際に1ヶ月間インドを回ったという経験が心に余裕をもたらせてくれるのでしょう。もう、ちょっとやそっとのことでは驚きません。インドに来たことを後悔することもありませんし、日本に帰りたくなったりもしません。考えてみれば随分たくましくなったものです。
ローナワラまで2等の自由席ですが、始発ですので楽に坐れます。電車に揺られながら、1ヶ月前にこの電車で、前田先生のいる「アナン・ニケータン」に向ったときのことを思い出していました。もう、線路沿いにしゃがんで用を足している光景を見たくらいでは驚くこともありません。
ローナワラには11時40分に着きました。「アナン・ニケータン」のあるアンボーナ・ヴィレッジ行きのバスは12時に出ます。これを逃すと、バスは夕方までありません。駅からバス停までの道は分かっています。重いリュックを背負って駆け出したせいで、ギリギリで間に合いました。
驚いたことにバス停で前田先生にばったりお会いしました。およそ1ヶ月ぶりの再会です。先生の話では、雨のせいで、前日までバスは走っていなかったとのこと。ラッキーでした。
「アナン・ニケータン」に着くと、日本の家からの手紙が来ていました。11月21日に出したようで、家族の者はみな元気にしているということでした。何も大きな出来事や変化はないようで、安心しました。
久保象永さんやカシナッツさんにも再会しました。
午後は、建設中のマンディルの基礎作りの手伝い、といっても泥運びくらいしかできません。やはり、「アナン・ニケータン」は何もないけれど落ち着きます。

12月3日。
朝10時頃から、マンディル建設の手伝い。地面をなるべく平らにならさなくてはなりません。器具などありませんので、目測で平らになっているかどうかを計らなくてはりません。削ったり掘ったりした土や石を運び出します。一日掛かってしまいました。インドの炎天下での肉体労働はたいへんな体力を使います。こんなことを前田先生や久保さんたちはずっと続けてきたのです。
夕飯は先生がいろいろと作ってくださいました。いつも主食はローティなのですが、今日はご飯を炊いてくれました。インスタントですが、味噌汁付きです。こぶの佃煮、野菜もあります。日本にいるときならば、絶対に母親に文句を言うような内容ですが、「アナン・ニケータン」ではたいへんなご馳走です。
夜、みんなでウイスキーを飲みました。温めたミルクの中にウイスキーを入れて飲むのです。こんな飲み方は初めてでしたが、なかなかいける味でした。胃にも優しいということでした。
夕食後、南インドのあるスヴァーミーの話になりました。昼間、井上和俊先生(当時、カイヴァリャダマに留学中)がいらして、そのスヴァーミーがまた前田先生に会いたがっていると伝言して帰られたというのです。そして、明日、そのスヴァーミーがローナワラに来るので、みんなで会いに行くことになりました。
前田先生の話では、その方はインテリでとても素朴で謙虚な方だそうで、ほんとうのサンニャーシンだということです。わたしもお会いするのが楽しみです。

12月4日。
朝からみんなでローナワラに行きました。前田先生、象永さん、カシナッツさん、わたしの四人です。ローナワラ駅で井上先生と合流し、スヴァーミーを出迎えました。正直言って、一見しただけでは普通のインド人のようです。まだ40歳代でしょうか。オレンジ色の衣ではなく、白いドーティ(民族衣装)を腰に巻いています。メガネをかけているところが、どこかインテリな感じを受けますが、とても物静かな雰囲気の方でした。インテリそうなのは見かけだけではなく、実際、精神世界に入る前は大学の先生をしていたとのことです。
その後、みんなでカイヴァリャダマへ。日本にいるときからローナワラに「ヨーガ大学」というところがあると聞いていましたが、実際に訪れるのは今回が初めてです。ローナワラには何回も来ているのに、今回が初めての訪問です。考えてみれば、それまではインドに慣れるだけで精一杯で、訪れる余裕なんかなかったというのが正直なところです。
「ヨーガ大学」というのは、どうもわたしが日本で聞いた俗称だったようで、現地で「ヨーガ・カレッジ」と言ってもなかなか通じませんでした。ここは、カイヴァリャダマというのが正式な名前で、大学というより、病院を付設するヨーガ研究所といったほうが近いかも知れません。北インドのリシケーシなどにある宗教的な雰囲気のアーシュラムとはまた異なります。
カイヴァリャダマはマハラシュトラ州政府の認定を受けているので、ここで正式なコースを受けると、州政府公認の認定書を受けることができるのです。たしか、1年コースと1ヶ月コースとがあったように記憶しています。
後で紹介する京都の龍谷大学の井上和俊先生は、ここで1年コースを受けていたのです。
カイヴァリャダマを創設されたのは、医師でもあったスヴァーミー・クヴァラヤーナンダです。
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by preman9798 | 2010-12-06 19:06 | Comments(0)