長年学んできたヨーガと大好きなインドの話です


by preman9798
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サット・サンガ in 狛江

昨日は狛江のトリャンバカン・ヨーガ・センターでサット・サンガがありました。
第1部はアーサナ、そして、第2部は講和とキールタン。
講和では、『シヴァーナンダ・ヨーガ』の中から、シヴァーナンダさんがどのようにお弟子さんたちを育てていったかを紹介しました。
シヴァーナンダさんに関しては、自分で話をしていてもとても魂が高ぶってくるのを感じます。本当に本当にお会いしたかった…。

今回のキールタンはわたし一人で歌いました。結局いつもと同じ曲になってしまいましたが、これから少しずつレパートリーを増やしていきたいと思っています。

参加してくださった皆様、お手伝いをしてくださったスタッフの皆さま、ありがとうございました。
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by preman9798 | 2010-10-24 09:55 | Comments(0)

勉強会の報告

13日・水曜日は、八雲教室の勉強会。『インドの叡智』第3部、インドがイスラーム教やキリスト教と出会い、宗教的にも大きな刺激を受けた時代。そして、グルのところを学びました。グルはわたしの大好きな内容です。
次回は、具体的にラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダなどの聖者たちの紹介です。
八雲教室の勉強会も、あと3、4回で修了する予定です。

18日・月曜日は、代々木UTLで『インドの叡智』第2部の勉強会がありました。
アシュターンガ・ヨーガのヤマ、ニヤマのところです。
とても面白いところですので、生徒さんたちも興味を持ってくださったと思います。
次回は、アシュターンガ・ヨーガの残り、アーサナ、プラーナーヤーマ、プラティアーハーラ、ダーラナー、ディヤーナ、サマーディの説明です。
そのなかでも、サマーディは詳しく学びたいと思います。

21日・今日は19:30より池袋で『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』の2回目の授業です。
だんだん面白くなってくると思います。
まだ始まったばかりですので、興味のある方はぜひいらしてください。

池袋の勉強会でお世話をしてくれているOさんが今日からインド旅行。
北インドを中心に回るようで、もちろん、リシケーシにも行くということです。
からかい半分で、周りの人から散々インドの注意点や危険を聞かされたようです。
初めてのインド、帰って来てからのお土産話が楽しみです。






わたしの初めてのインド・14

マドラスからスリランカへ。スリランカ(以前は、セイロンと呼ばれていました)はインドに近いとはいえ外国です。また、宗教もヒンドゥー教ではなく、仏教国です。インドの人たちと比べると、とても穏やかなような気がしました。
スリランカでは、インドと違ってそれほど大きなトラブルにも会わず、ただ観光だけに終始しました。


●マドラスからスリランカへ
11月22日。
朝早く起きてヨーガ。12時のチェック・アウトまで時間がありますが、ヨーガ道場を探して訪れるほどの余裕はありません。なんだか中途半端に時間を過ごすことになってしまいました。
バスでマドラスのエア・ポートまで。スリランカは外国なので近いとはいえ、思った以上に手続きにとまどりました。

マドラスからスリランカのバンダラナイケ空港までは1時間と少しのフライトでした。スリランカの税関ではいろいろと聞かれ、結局、電池計算機やカセット・レコーダーなどを申告することになりました。今では百円ショップでも売っているような電池計算機を申告するなんて信じられないと思いますが、当時はまだ貴重品でとても珍しがられたのです。なにしろ、インドでは大きなお店で買い物をしても、飛行機の切符を買うときでさえも、紙に書いたり暗算で計算していたりたりしていた時代です。この薄くて小さい電池計算機は当時のインドではとても貴重品であり、みんなから羨ましがられました。
税関では計算機とカセットを口頭で申告した以外は、特にバッグの中を開けて持ち物を調べるということはありませんでした。
税関を出た後は、米ドルからセイロン・ルピーに両替をしなくてはなりません。空港の銀行で50ドルほど両替をしました。1セイロン・ルピー≒17円。
セイロンとはスリランカの昔の名前ですが、未だにセイロン・カレーやセイロン紅茶など、セイロンという名前が使われています。
インドの通貨単位はルピーとパイサでしたが、スリランカの通貨単位はセイロン・ルピーとセントです。あまりはっきりと覚えていませんが、外貨獲得のためでしょうか、たしかドルからセイロン・ルピーに両替すると、レートが良かったように記憶しています。

スリランカはたいへん親日的な国だと聞いていました。南方上座部仏教とはいえ、同じ仏教国ということもあるのでしょうか。第二次大戦が終わり、サンフランシスコの講和条約で勝利国が敗戦国日本に対し、いろいろな賠償や条件を突きつける中、スリランカの代表は「恨みは恨みによってはなくならない。恨みは慈愛によってのみなくなる」というブッダの言葉を引用して、日本に何も賠償を求めなかったといいます。戦争に負け、世界中から袋叩きにあっても仕方がなかった日本に、スリランカ代表のこの言葉はまさしく仏さまの言葉だったのではないでしょうか。

空港からはバスでスリランカの首都であるコロンボ市内へ(現在は、スリジャヤワルダナプラコッテ)。1時間20分くらい。スリランカは仏教国ですが、ちょっと見ただけではそこに住んでいる人たちの顔立ちも習慣も、南インドとあまり変わらないように見えました。
ほんとうは、すぐに海辺の町ネゴンボというところに行きたかったのですが、今日はコロンボのYMCAで一泊することに。
コロンボのYMCAはデリーのそれとは異なり、とても大きくて古い、イギリス風の建物でした。天井は高く、一階のロビーから二階にかけては映画の中に出てくるような大きな階段があり、踊り場には大きなキリストの絵が飾ってありました。ビリヤードやチェスの台、図書館、レストランもあります。トイレとシャワーは共同で、建物が古いせいでしょうか、あまりきれいとはいえませんでした。宿泊代は30セイロン・ルピーと安いのですが、食事は付いていません。
夜は思い切って、近くにあった大きなホテルのレストランへ。セイロン・カレーはインドのカレーとはまた微妙に異なり、あっさりとしてとても美味しいものでした。でもちょっと贅沢をし過ぎてしまい、50セイロン・ルピー(約850円)も取られてしまいました。
部屋に戻り、インドを出るときに免税店で買っておいたウイスキー「ホワイト・ホース」を飲みました。

11月23日。
朝食はYMCA内のレストランで、トースト、オムレツ、バナナ、コーヒー。インドでもスリランカでも、ホテルの朝食はだいたい同じようなメニューです。朝食後、コロンボ市内の散歩に。スリランカは南国なので、見たこともない果物をたくさん売っていますが、何と言ってもパイナップルがとても美味しかったのを覚えています。50セント、10円もしません。バザールで偶然飲んだ、名前が分からない赤いジュースがとても美味しかったのですが、とうとう名前を聞きそびれてしまいました。町を歩いていると暑いので、どうしても果物や飲み物を買い食いしてしまいます。そのおかげで、日本で見たこともないような珍しい果物やジュースをたくさん飲食することができました。

午後、バスでネゴンボへ移動。スリランカにはあまり鉄道は通っていませんが、その代わり路線バスがたいへん発達していて庶民の足となっています。しかし、どこに行くにもバスは満員で、バス停にはいつでも長い行列ができています。大きなリュックサックを持って満員バスに乗るので、わたしのほうもたいへんでしたが、地元の人たちにとってもさぞかし迷惑だったことでしょう。
ネゴンボ行きのバスもそうでした。長い行列ができています。やはり、インドと同じ、ジロジロと見られます。わたしはバスの運転手に行き先を確認するのと同時に、日本からのツーリストであるということを言いました。すると、運転手はスリランカの人たちがずっと並んでいるのに、わたしを優先的に乗せてくれたのです。申し訳ない気持ちになったと同時に、これからはこの手を使おうと心に決めました。
ネゴンボにはタクシーがないのか? それらしき乗り物で、「シルバーサンド・ホテル」というホテルに。海のすぐ近くにあるこじんまりした清潔なホテルで、宿泊しているのはヨーロッパ人らしきカップルが三組だけでした。部屋から海が見え、波の音を聞きながら寝ます。ただ、波が荒く、泳ぐことができなかったのが残念でした。

11月24日。
せっかく海の近くのホテルに泊まったのですから、朝、ネゴンボの海辺を少し散歩しました。ここのビーチは岩場ではなく、きれいな砂浜が長く続いています。
朝食は、コンチネンタル・スタイルとか言うようで、どこでもトーストにコーヒーやジャムやオムレツと決まったメニューです。これらに、たまにオレンジジュースが付くくらいです。大きなホテルでは朝からビュッフェ・スタイルのところもあるようですが、わたしが泊まるレベルのホテルの朝食は、判を押したように同じメニューでした。
一度、首都コロンボに戻り、キャンディ行きの切符を買うつもりでしたが、ものすごく混んでいるために急遽取り止め、ヒッカドワという海辺の町に行くことに。ヒッカドワも日本にいるときにパンフレットを見て、ぜひ行ってみたいと思っていたところです。パンフレットには、サンゴ礁の海と白いビーチが続き、ヨーロッパ人らしい女性がビキニでくつろいでいる写真が写っていました。
インドと異なり、スリランカについてはほとんど知識がありませんでした。行き当たりばったりの観光旅行です。

夕方、確かにヒッカドワ行きのバスに乗ったのですが、なぜか途中でバスが止まってしまい、乗客がみんな降りてしまいました。外はすでに暗くなっていたうえに、雨が降っていてとても心細くなりました。何がなんだか分からないまま、わたしも他の乗客に続いて隣に止まっていたバスに乗ったのですが、それが間違いでした。途中、不安になったわたしは、このバスはヒッカドワに行くのかと訪ねたところ、ヒッカドワには行かないということです。
なぜ、乗り換えるときに確認しておかなかったのだろうと後悔しましたが、今更言っても仕方がありません。急いでバスを降り、雨の降る夜の中を、ヒッカドワ行きのバスが来るのを待ちました。今自分がどこにいるのかまったく見当が付きません。バスもタクシーも、自動車らしきものはほとんど通りません。
日本で見た、あのパンフレットの写真につられてヒッカドワを目指したことを後悔しました。いや、確認もしないでバスを乗り換えたことがいけなかったのでしょう。そのうちに、心細さからでしょうか、何で自分ばかりがこんなトラブルばっかり起るのかと、やたらと腹が立ってきました。そして、数十分後、ようやくヒッカドワ行きのバスが来ました。そして、ヒッカドワに着いたのは夜の11時ころでした。一人旅行の原則を破り、夜、知らない町に着いたのはインドのブッダガヤ以来です。あの時はもう二度と同じ過ちは繰り返さないと誓ったはずなのに、学習できていませんでした。まったく、ブッダガヤのときと同じ、周りは真っ暗で、右も左も分かりません。あの時は偶然、アジャイという青年が声をかけてくれて助かりましたが、ここでは最悪の場合、どこか屋根のあるところを見つけて野宿をするしかありません。

しかし、ここでも信じられないことが起りました。馬に乗ったおまわりさんが二人、声を掛けてくれたのです。ブッダガヤのときとまったく同じです。そのうちの一人のおまわりさんが、近くの安ホテルまで案内してくれたのです。ホテルはそこからわずか歩いて一分くらいのところにありました。このときばかりは、宿泊料金も部屋が清潔かどうかも考えませんでした。とにかく野宿を免れたのですから。そのホテルは「ビーチビュー」というたった4部屋しかない小さなホテルで、わたしの部屋は3号室ということでした。外は暗くて分かりませんが、波の音が聞こえます。「ビーチビュー」という名前の通り、きっと海が近いのでしょう。

荷物を置いてほっとすると、今度はやたらとお腹がすいてきました。夕方からほとんど何も食べていません。しかし、小さなホテルなのでレストランなどは付いていそうもありません。すると、普段着に着替えた先ほどのおまわりさんがやってきて、このホテルで良いかと聞いてきました。先ほどは暗くて顔もよく分かりませんでしたが、わたしと同年代のまだ若いおまわりさんです。わたしは彼の親切にお礼を言い、ついでにお腹がすいていることを伝えました。もう夜も遅かったのですが、彼は自分のよく行くお店というところに連れて行ってくれました。観光客用ではなく地元の人が通うような小さなレストランでした。
米の粉を蒸かした白いお饅頭のようなものの上に、卵が乗っている食べ物でした。名前も分かりません。わたしにとって初めてのスリランカ家庭料理でした。味が薄くてあまり美味しくなかったように覚えていますが、お腹が減っていたのと、彼の親切さに心も胸もいっぱいになりました。

また、見ず知らずの人に助けられました。わたしだったら、日本で、困っている外国人に出会ったとき、これほど親切にしてあげられるか、まったく自信がありません…。
数時間前までは野宿を覚悟していたのに、その夜は「ビーチビュー・ホテル」の3号室でホワイト・ホースを飲みながら、波の音を聞き、ゆっくりと休みました。
これはずっと後になってのことですが、わたしたちの人生で起ることすべてに何らかの意味があると学びました。人生で経験するすべてのことは、偶然ではなく必然なのだと。
わたしは、1977年のこの最初のインド旅行で何を経験し、何を学ばなくてはならなかったのでしょうか。何を経験し、何を学ぶためにインドやスリランカに行ったのでしょうか。
気障なことを言うようですが、今思うと、この旅行はなにか大きな力が働いていて、大きな力に助けられていたような気がしています。今こうしてヨーガを学び続けていられているのも、このインド旅行が大きな要員の一つになっていることは確かです。
30年前のこのインド旅行の手記を書いていて、ふと、このことを考えさせられました。
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by preman9798 | 2010-10-21 10:45 | Comments(0)

ムドラー

9日の土曜日はY.L.S.の勉強会。
現在学んでいるのは『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』の第3章のムドラーです。
アーサナやプラーナーヤーマと異なり、情報もあまりなく、大変難しいところです。
アーサナやムプラーナーヤーマは、関節や筋肉、内臓などに顕著な効果が見られますが、ムドラーの効果や恩恵は、内分泌腺やホルモンに影響をもたらせてくれます。
教典を見ますと、タントラ系のヨーガらしく、性的なムドラーにも触れています。
この性的なことに関する箇所は、卑猥で堕落したものとして、教典の解説者や研究者によっては省かれることがあります。
しかし、それらを含めてのハタ・ヨーガであることを忘れてはならないと思います。
決していい加減な気持ちで昔のヨーガ行者が教典を残したわけではありません。






わたしの初めてのインド・13

カルカッタからマドラスへ。マドラスもまた今日では「チェンナイ」と名前が変わっていますが、この手記では昔のままにマドラスと書くことにします。
マドラスは緑が多く、今まで回ってきたデリーやカルカッタとはまったく違う国のようでした。


●初めての南インド、マドラス
11月18日。
飛行機から降りたマドラスは雨でした。しかも、すでに暗くなっていたこともあり、街の様子が分かりません。今までと同じように、マドラスでもまずツーリスト・オフィスで地図をもらい、バスで市内に。夜なので、とりあえず今日泊まるところを確保しなくてはなりません。最初「ウッドランド・ホテル」というホテルに行きましたが、すべてエアコン付きの高い料金の部屋ばかりなので、比較的安い「アジャンタ・ホテル」というところに。しかし、それが大きな間違いでした。
古くて大きいホテルなのですが、なぜか部屋にはガラスの付いていない窓枠だけの窓がたくさんあり、そこから風や小鳥が入ってきます。一見、風流だと思われるかも知れませんが、窓から入ってくる外の騒音がものすごいのです。シャワー室も同様に窓にはガラスがなく、風がヒューヒュー入ってきてとても寒いのです。

11月19日。
朝、スリランカまでの切符を買いに。150ドル。スリランカはマドラスととても近いとはいえ、一応外国です。なんだかんだと、切符を買うのに午前中いっぱい掛かってしまいました。
お昼ごはんはチャイニーズ・レストランへ。美味しかった。
マドラスの町を散歩すると、緑が多いことに気が付きます。今まで回ってきた北インドとは違い、緑の量が圧倒的に多いのです。南国らしく、いたるところにヤシの樹が生えています。
実は同じインドという一つの国でも、北インドと南インドとでは民族も言語も文化も習慣も異なるのです。
ここで少し、わたしがこのインド旅行で感じた、北インドと南インドの違いをお話したいと思います。

北インドはアーリア系の人たちが多いのですが、マドラスを中心とする南インドではドラヴィダ系の人たちが多く暮らしています。顔立ちも、インド・ヨーロッパ語族の血を引く一般に彫りの深い顔立ちの北インドに対し、南インドの人たちの特徴はドラヴィダ系の比較的色の黒い、平坦な顔立ちです。
しかし、今日のインドの人たちのすべてがアーリア系、ドラヴィダ系とはっきりと二分化されているわけではありません。実際には、これらの人種を中心にしながらも、先住民の血も混ざった混血種の人がたくさんいます。

服装も北インドでは、男性はクルタやパジャマを着ている人が多かったのに、南インドの男の人たちはルンギという腰巻みたいな衣装を着けています。そのルンギの柄の多くに使われているのがあの有名なマドラス・チェックです。このルンギの下半分をまくって腰に挟むと、ミニスカートのようになってしまうのですが、マドラスではリキシャのおじさんも肉体労働者もこのスタイルが多いのです。

また、言語に関しては、北インドでは主にインド・ヨーロッパ語系の言語、中でも話者人工の最も多いヒンディー語が広く使われています。反対に、マドラスはタミル語というドラヴィダ語系の言語です。その違いは書体を見れば一目瞭然です。町で見る看板やバスの行き先が書かれている文字も、北のデーヴァナーガリー文字と違い、豚の尻尾のようなくるくると丸まった書体です。たしか、タイやスリランカなど南インドの国々でも似たような書体を使っていたと思います。
おそらく、北インド人の人たちは、南インドのタミル語の丸まった字をほとんど読めないと思います。
インドでは、インドという一つの国でありながら、まったく言語体系の違う言語が公用語とされているのです。それを最も顕著に表しているのがインドの紙幣です。紙幣にはサンスクリット語やヒンディー語やタミル語など話者人口の多い14~5種の言語でその紙幣の金額が記されています。ぜひ、インドの紙幣を手にする機会があったら、そこに書かれている文字の違いを観てください。書体がまったく違うことに驚くでしょう。

食事は、北インドの主食が小麦を使ったチャパティやナーンであるのに対し、南インドでは米や米を粉にしたしん粉が多く使われます。しん粉を蒸かしたイディリなどは有名です。カレーも北が脂っこいこってりとした味なのに対し、南のほうがあっさりとしているように思います。
西インドや北インドでは、何種類かのカレーを小さな入れ物に盛ったターリーという大皿(ステンレスの大きなお盆)料理をよく食べますが、南インドではミールスと言い、大きなバナナの葉を四角くカットした上に種々のカレーを盛り付けます。食べ終わったらバナナの葉をくるくる丸めて捨てますが、今度はそれを牛などの動物が食べ、さらにそれが糞になり、燃料として使われるというサイクルになっているようです。
マドラスで食べたインド版クレープのマサラ・ドーサの美味しさは忘れられません。北インドにも南インドのレストランはありますが、やはりマドラスで食べたマサラ・ドーサやイディリ・サンバは格別でした。日本には屋台のクレープ屋さんがありますが、同じようにしてマサラ・ドーサを売ったら、きっと行列ができるような気がするのですが…。
ちなみに、わたし個人の感想ではありますが、日本にあるインドレストランの多くは、どちらかというと北インド系のような気がします。

人柄や人間性に関しては個人々々で違いますので一概には言えませんが、わたしの実感としては南インドの人たちのほうが素朴で穏やかだったような気がします。
しかし、お酒や戒律に関しては南インドのほうがより保守的で、マドラスでは当時、許可書がないとお酒を飲むこともできませんでしたし、食事も菜食が徹底していました。概して北インドよりも南インドのほうがヒンドゥーの戒律に対しては厳格だったように思います。
インドの観光地はどちらかというと北インドのほうに多く、日本からのツアーも北インドが中心になりがちですが、南インドには北インドにはない魅力がたくさんあります。大げさに言うと、北インドと南インドとでは、まるで別な国のようにさえ見えます。
南インドの歴史や文化や習慣については辛島昇氏がたくさんの本を書かれています。ぜひ、参考にしてください。

11月20日。
今日は朝からインド政府観光局のツーリスト・バスで、マドラス周辺とカーンチープラムとマハーパリプラムのお寺を回る観光に。22ルピーと、とても経済的です。アーグラー観光のときと同じように、この「はとバス観光」のお客さんのほとんどがインド人。そして、英語のガイド付きになっています。
マドラスを出発すると、まずはカーンチープラムに。ここにはカイラーサナータ寺院という有名なヒンドゥー教寺院があります。同じヒンドゥー教の寺院でも北と南では建築様式が異なり、南インドには、ゴープラムとよばれる先が細くなった台形の形をした様式の寺院が多く見られます。このカイラーサナータ寺院も南インド独特のその建築様式で、その壁面には無数の彫刻が刻まれていることで広く知られています。
カメラを持って寺院に入ると1ルピー、何かというと50パイサ、1ルピーといちいちお金を取られるのでちょっとうるさく感じました。
カーンチープラムにバスが止まるとお土産売りや子どもたちがワーッと寄ってきました。しかし、他のインドの町と異なり、子どもたちは何かを売りに来るわけではなく、日本の切手や硬貨を欲しがるのです。
子どもたちは、わたしを日本人だと目星をつけると、日本の切手や硬貨をくれと大勢集まってきます。そんなものは持っていないと言って追っ払うと、今度は自分の名前や住所を書いた小さな紙をバスの窓から中に投げ入れるのです。日本に帰ったら送ってくれということなのでしょう。
二回目のインド旅行のときのことでしたが、ローナワラのホテルに泊まったときに、父親らしい人が小さな息子を連れてわたしのところにやってきました。そして、「この子が日本の硬貨を欲しがっているのですが、何かお持ちではありませんか」、と聞かれたことがありました。
父親まで出てきたのでは仕方がありません。日本に帰った後の成田空港から自宅までの交通費として用意してあった日本円の硬貨をいくらか上げたという思い出があります。

マハーパリプラムは海岸寺院で有名な観光スポットです。その名前の通り、ベンガル湾の海岸近くに古い寺院がいくつも建っています。古いせいか海が近くて劣化したのか、寺院自体は少しさびれている感じがしましたが、海をバックにしたヒンドゥー寺院はとても新鮮に見え、独特の風情がありました。
すぐ近くには、大きな岩に「クリシュナの苦行」や「ガンジス河の降下」をテーマに彫刻されたレリーフや、岩を掘りあげて造られた五つの石造寺院などがあります。
どの寺院も、北インドでずっと観てきたヒンドゥー寺院とは異なる造りで、このツーリスト・バスの観光はとても面白いものでした。

このマドラス観光の間中、バスの中から外を見ていて気が付いたのですが、道路も田んぼも街中もどこもが水浸しになっています。後で知ったことなのですが、マドラスの11月というのは北インドとは異なり、雨の多いシーズンということでした。しかもほんの数日前に大きな台風があり、大きな被害が出たということでした。どうもわたしは、台風の直後にマドラスにやってきたようなのです。
日本でその台風をテレビニュースで放映したらしく、ちょうど日程的にその時期にマドラスに行くということを伝えてあったせいで、日本の家族はとても心配したようです。
しかし、現地に居るわたし自身は雨が降って道路が水浸しになっているくらいにしか思っていませんでした。当時のインドにはまだテレビもほとんどありませんでしたので、この大きな台風についてはまったく知りませんでした。むしろ日本の方が、情報が伝わりやすいようです。

ツアーの最後はワニ園です。じっとしてあまり動かないワニを観ながら、何でワニ園がこのツアに入っているのか考えてしまいました。
このマドラスでは何と言うのか分かりませんが、サンスクリット語ではワニは「マカラ」と言います。マカラ・アーサナ(ワニのポーズ)のマカラです。インド神話を描いた絵では、マカラはガンジス河の女神やヴァルナ神のヴァーハナ(乗り物)として描かれています。
しかし、このワニ園のワニは別段大事にされているようには見えませんでした。
わたしはまだインドの野生のワニを直接観てはいませんが、ワニは今でも海辺や大きな河に行くと生息していると聞いています。
ワニ園を出るとベンガル湾の海沿いの道路をひた走り、マドラス市内に戻りました。途中海がとてもきれいで、ときどきヤシの樹に囲まれたロッジ風のホテルを何件も見かけ、今度はああいうところに泊まってみたいと思いました。
バスがホテルの近くを通ったので途中で降ろしてもらい、リキシャでホテルまで戻ってきました。

11月21日。
朝早く起きてヨーガ。でも気分が悪くまた寝てしまいました。どうもこのアジャンタ・ホテルがうるさいのと、風がヒューヒュー入ってくるのとで、頭が痛くなってしまったようです。思い切ってホテルを替わることに。
あまり離れていない静かなところに「ツーリスト・ホテル」がありました。一泊20ルピー。アジャンタ・ホテルと値段は同じ、初めからここにすればよかった。小さな庭もあって、南国風なのも気に入りました。このホテルのダイニングで食事をした後、うっかりと計算器を置きっぱなしにしてしまったようです。従業員がそれを部屋まで届けに来てくれました。失くした物が出てくるなんて、北インドではありえないことです。わたしは嬉しくなり彼に2ルピーをあげて、お礼を言いました。そこまでは良かったのですが、しばらくすると戻ってきて、ちゃんと届けたのだから10ルピーくれというのです。腹が立ちましたが、仕方がありません。わたしの中で、南インドの人は穏やかで正直というイメージが作られつつあったのに、やはりここもインドでした。
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by preman9798 | 2010-10-11 08:59 | Comments(0)
昨日、『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』の第1回目の勉強会を行った。
『インドの叡智』に引き続いて受けてくださる方がほとんどですが、中には遠くから来てくださった方もいらっしゃいます。
テキストは、スタッフのOさんが作ってくださったものを配布しました。

授業は、少しハタ・ヨーガに関する話をしてから、第1章第1節から読み始めました。
参加してくださった皆さんはどう感じてくれたのだろうか…。

この勉強会はすでにインストラクターをしている人が多く、正直言って、各人が持っている通常のレッスンなどでは教典の知識はそれほど必要ではないかもしれません。
それよりも、肩こりの治し方や腰痛にならないためのアーサナを学んだほうが現実的のような気がします。
しかし、ハタ・ヨーガの原典を学ぶことは、大きな自信につながると思います。

『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』は、同じヨーガの教典でありながら、『ヨーガ・スートラ』や『バガヴァッド・ギーター』と比べるといまひとつ知名度の低い教典ですが、ハタ・ヨーガを学んでいる者にとって大変重要な教典です。
まだまだ間に合いますので、関心のある方は是非ご参加ください。
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by preman9798 | 2010-10-08 09:12 | Comments(0)

勉強会の報告

4日、UTLスタジオで『インドの叡智』の第2部の勉強がスタートしました。
とても重要なところで、ヨーガの流派と教典を中心に学びます。
初回が終わったばかりで、まだまだ間に合いますので、ぜひいらしてください。
毎週月曜日・午後1時から2時20分までです。


7日から始まる隔週木曜日の池袋の勉強会では、『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』の第1章を学んでいきます。
前回で『インドの叡智』の学習が終わりましたが、最後の授業で大好きなシヴァーナンダさんの話ができたので、わたし自身は大満足です。
スタッフのOさんが、りっぱなプラディーピカーのテキストを作ってくださいました。
こちらはまだ始まっていませんので、ハタ・ヨーガに関心のある方はぜひご参加ください。


13日の毎月第二水曜日の八雲の勉強会は、『インドの叡智』の第3部からです。
ここも大変面白いところです。グルとはどういうものか。そして、インドの聖者たちの話。
テキストだけではなく、いくつかの資料を使って話を進めていきたいと思っています。


毎月第土曜日のY.L.S.の勉強会では、前前回より『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』の第3章のムドラーを学んでいます。これはとても難しいです。
また、教典には実際にはできないようなテクニックや誤解を受けるようなものも記載されています。
ハタ・ヨーガの一部とはいえ、ムドラーが一般的にあまり行われていないというのもうなずけます。
でも、だからこそ、一度は教典に目を通すことが大切だと思います。


遅れてしまいましたが、今日、リシケーシの川崎あき子さんのところに『ヨーガ事典』を送りました。EMSにしたのですが、ちゃんと届くでしょうか…。
ほんとうは川崎さんとスヴァーミージーが来日中にお渡ししたかったのですが、ほんの十日ばかりの違いで間に合いませんでした。



わたしの初めてのインド・12

ハリオーム! 成瀬です。
カルカッタはベナレスやブッダ・ガヤとは違った意味で刺激的な町でした。
カルカッタは現在ではコルカタと言いますが、わたしが最初にインドに行ったときはカルカッタと呼んでいましたので、この手記もカルカッタで統一したいと思います。


●カルカッタ
満員列車から開放され、カルカッタのハウラー駅に着いたのは朝でした。ハウラー駅はイギリス建築風の大きな駅です。カルカッタは、イギリス統治時代は首都だったということもあり、市内にはハハウラーの駅舎のようなイギリス建築風の建物がいくつも残っています。
寝不足でまだ少しボーっとしている頭で、ツーリスト・オフィスに行ったのですが、朝早すぎたのかまだ開いていませんでした。
列車の中では飲まず食わず状態だったせいか、気が付くと急にお腹がすきました。近くの立ち食いスタンドのようなところでトーストとゆで卵を食べていると、物乞いの子どもが弱々しい声で「バクシーシ」と言って側によってきました。聞こえない振りをしてゆで卵を食べていたら黄身のかけらが下に落ちてしまいました。すると、その子が慌てて床に屈みこみ、その小さな黄身のかけらを一生懸命につまもうとします。しかし、黄身はボソボソしていて、みんな指先から落ちてしまいます。インドに来てからずっと物乞いには何もあげたことはないのですが、あまりにもひどいので、50パイサをあげました。というより、早くどこかに行って欲しかったというのが正直な気持ちでした。誰でも、お腹のすかせた子どもにじっと見ていられたのでは、ゆっくりと食事などできません。

最初の予定では、カルカッタでは「サルベーション・アーミー」、つまりキリスト教の救世軍の宿泊施設を利用するつもりでいました。ドミトリー(大部屋でベッド単位で借りる)ならばとても安いからです。しかも、ここは貧乏旅行者が集まる場としても有名で、こういうところでは旅行者たちが情報交換をすることができます。
しかし、ガヤからの満員の夜行列車で疲れきってしまったので、予定を変更して少し良いホテルに泊まることにしました。「フェアローン・ホテル」という博物館の近くにある西洋風の小ぢんまりとしたホテルです。たしか、女主人は西洋人だったと思います。インドでは珍しく三食付で一泊100ルピーと、わたしにとってはちょっと高めでしたが、とても雰囲気のあるホテルでした。
しかも、このホテルの食事はとても美味しく、西洋人も大勢利用するせいか、夕食にはステーキを選ぶことも出来たと記憶しています。小さな庭にはテーブルが出ていて、庭先で食事を摂ることも出来るのです。
三食付というのは便利なようですが、旅行の形態によっては不便な場合もあります。三食付いていても、昼間は観光に出ているので昼食は外で食べることになり、結局は朝食と夕食しか食べませんでした。そうかと言って、昼食代を返してくれるはずもありません。


●カルカッタのリキシャ
今まで、デリーやベナレスで乗ったリキシャは、自転車で引っ張る「サイクル・リキシャ」やエンジンの付いた「オート・リキシャ」でしたが、カルカッタのリキシャは日本の「人力車」と同じ、人が歩いて引っ張るのです。
インドのリキシャは、明治時代に当時の日本の交通手段であった人力車がインドに伝わったと聞いています。日本では、京都や浅草などの観光地以外はとっくの昔になくなってしまった乗り物が、インドには現役バリバリで残っていたのです。ただ、今日ではカルカッタ市内の交通渋滞の原因になるとかで、リキシャの走れる範囲が限られているといいます。
日本から伝わったリキシャではありますが、どうもその性能や作りには開きがあるように見えます。インドのリキシャは、日本の人力車のように軽快そうには見えず、頑丈な作りになっていて相当重量もありそうです。その重たそうなリキシャにわたしのような重い荷物を持ったお客が乗るのですから、それを引くリキシャ・ワーラー(リキシャを引くおじさん)は重労働だと思います。重労働を課してしまうのはわたしのような荷物を持った旅行者だけではありません。インドの人たちもリキシャのあの狭い座席に、三人も四人も乗れるだけ乗っています。ときにはそれを年老いて痩せたおじいさんが引っ張るのですから、見ていてかわいそうになることがあります。
それでなくても、スモッグやら排気ガスで空気が汚いカルカッタ市内を歩くのですから、きっとリキシャ・ワーラーたちは長生きなんかできないのではないでしょうか。

カルカッタのあるリキシャ・ワーラー一家の話が、ドミニク・ラピエールの大ベストセラー『歓喜の街 カルカッタ』(長谷泰訳・河出文庫)の中に詳しく書かれています。カルカッタのスラム街での生活や人間模様がくわしく描かれている、とても面白い本です。興味のある方はぜひお読みになってください。

●カルカッタ
カルカッタに住んでいる人に叱られてしまいそうですが、カルカッタは「宇宙一、汚いところ」という話を何かの本で読んだことがあります。
宇宙で一番かどうかは別にしても、実際のカルカッタは噂どおりとても汚く、裏道などを歩いているとそれだけで喉が痛くなってしまいます。どこの街角もちょっとしたゴミの山になっていて、そのゴミの山の中を裸足の子どもたちが何かを探したり拾い集めたりしています。きっと、少しでもお金になるようなものを見つけているのでしょう。
オールド・デリーやベナレスも騒然とした町でしたが、カルカッタのそれはまた少し違っていました。

あまりの汚さに観光に行く気も失せ、近くの博物館に行くことにしたのですが、それが大正解でした。とても大きな博物館ですが、入場料は30パイサ。10円です。ここにはインド紙幣の肖像にもなった、あの有名な「アショーカ王の石柱」があります。大きな博物館には膨大な数の展示物が飾られ、古い仏像もたくさん展示してあります。ボンベイの「プリンス・オブ・ウェールズ博物館」やデリーの「国立博物館」よりも大規模で、とても面白い博物館でした。ゆっくりと観て回ったら、おそらくそれだけで数日間必要となるでしょう。

インドでは、歩いているだけですぐに喉が乾いてしまいます。町で飲んだパイン・ジュースがとても美味しかったのを覚えています。ボンベイで飲んだサトウキビ・ジュースに匹敵する美味しさでした。インドにはどこの町でも屋台のジュース屋さんがあります。ちょっと衛生的にどうかと思うお店もあり、今はインドに行ってもほとんど飲まなくなってしまいましたが、まだペット・ボトルの水を売っていなかった当時は平気でジュースを飲んでいました。

夕方、ビールが飲みたくなり酒屋に行ったのですが、閉まっていたのでリキシャでお酒を売っているところに連れて行ってもらうことに。リキシャのおじさんは狭くて暗い道をドンドン進み、やがてある民家の前で止まると外階段を上がって行きました。どう見ても酒屋なんかありそうに見えません。汚い普通の民家です。
すると、二階の部屋から男の人が出てきて、最初にリキシャのおじさんから聞いていた値段とは違う、べらぼうに高い値段を言ってきました。わたしは腹が立ったので、そのままその家を出て来てしまいました。腹が立ったのも事実ですが、ほんとうは怪しげな家で怪しげな男からビールを買うことが恐くなったのです。
あの家は一体何だったのか、未だに分かりません。単に、リキシャのおじさんの知り合いの家だったのでしょうか。
結局、「オベロイ・グランド・ホテル」という高級ホテルのバーでビールを飲むことにしました。ビール二本にナッツ類のようなものが付いて25ルピーでした。最初からここに来ればよかったのに、酒屋で買えば少しでも安上がりだと思ったのが裏目に出てしまいました。

わたしがカルカッタで泊まった「フェアローン・ホテル」は決して安宿ではないのですが、それでもホテルを一歩出ると、リキシャのおじさんや怪しげな男が、「ハッシッシ」とか「ジキジギ」と小さい声で言い寄ってきます。ジキジギという言葉が何語なのか、どういう意味なのか今も分からないのですが、「ジギジギ、スクール・ガール、チャイニーズ」と言っていたところをみると、そういう仕事をする女性のことのようです。つまり、リキシャのおじさんはわたしに「兄さん、女はどうだい」と聞いてきたのです。あからさまにこういう類の声を掛けられたのは、このインド旅行ではカルカッタだけでした。

後に前田先生にお聞きしたところ、やはりカルカッタは気持ちが荒んだ人が多く、インドでも特別にひどいところということでした。たしかに、町はゴミの山、物乞いも多く、空はスモッグや排気ガスでどんよりしています。前田先生がおっしゃるには、カルカッタで胸の病気を患ったら治らないということでした。

話は変わりますが、お恥ずかしいことに当時のわたしはマザー・テレサという人のことをまったく知りませんでした。ずっと後になって、マザー・テレサがあの地獄のようなカルカッタで、あのような活動をされているのを知って、驚いたと同時にたいへん感動を受けました。カルカッタのあのような環境の中で、街角に置き去りにされた病人や老人、あるいは捨てられた人たちに対してどうしてあんなに優しくなれるのでしょうか。ほんとうに聖女としか言いようがありません。
マザー・テレサと比べること自体失礼な話かもしれませんが、わたしなんかカルカッタと耳にするだけで嫌な思い出と文句しかないのに…。


●カルカッタでの出来事
11月17日。
朝早く起きてヨーガ。難しいアーサナをするわけではありません。身心をほぐすような簡単なアーサナばかりです。いつか、具体的にどのようなアーサナやプラーナーヤーマをしていたのかをお話したいと思います。
ホテルでトーストやオレンジ・ジュースやオムレツの朝食を済ませると、観光名所でもあるマイダン公園やビクトリア記念堂に行ってみることに。カルカッタの街中はどこも汚いのに、ここはとてもきれいでした。
ただ、町や公園にはねずみがたくさんいるのには閉口しました。ねずみが嫌いな人は悲鳴を上げてしまうでしょう。しかし、この日の午後はねずみよりももっと不愉快な経験をすることになります。

珍しいホワイト・タイガーがいるという動物園に行くことにしたのですが、その途中、自称イギリス人の船乗りという人が声をかけてきました。わたしたちは一緒に動物園に行き、写真を撮ったり雑談をしたりで数時間を過ごしたのですが、別れ際に彼が自分の船に遊びに来いと誘ってくれました。船内には食べ物もたくさんあるし、ビールもウイスキーもあるからと。そして、そのときに必ず返すので、50ルピー貸してくれと言うのです。わたしはそのイギリス人を信用してしまい、つい言われるままに50ルピーを貸してしまいました。正直、頭の中に食べ物やビールやウイスキーがちらついていたことは否定できません。どうしてこうも飲み物や食べ物に弱いのでしょう。船の名前を聞き、4時に再会する約束をすると、わたしたちは別れました。

その後、わたしは「ニュー・マーケット」という日常品を売るお店がたくさん集まっているところに行き、皮のサンダルを買いました。皮のサンダルがとてもカッコよく見えたのです。マーケットの中を歩いていると、三人も四人も後から付いてきて何か説明をします。うっかり返事をしたり話をしたりすると、後でガイド料金などといってお金をせびられます。わたしにももう、そのくらいの智恵は付いています。そう簡単にはだまされません。
ちなみにせっかく買った皮のサンダルですが、サンダルの皮が硬いのか、わたしの足がやわなのか、履いて歩いてみたところすぐに皮がむけてしまい、結局しばらくは履くことができませんでした。
国内線「インディアン・エア・ラインズ」のオフィスに行き、明日の3時45分発マドラス行きの切符を買いました。

カルカッタに来たからには絶対に訪れてみたかったのがラーマクリシュナ・ミッションの総本山、ベルール・マット寺院です。ここは市外にあるため、行くまでに思った以上に時間が掛かってしまいました。ベルール・マット寺院には3時頃着いたのですが、中に入れる時間は3時30分までということです。入口に看板があって、たしかにその看板には見学できる時間帯が書いてあります。寺院を参拝するのに時間制限があるなんて、まったく知りませんでした。
わたしはちょっと迷いました。まだ30分あるのですが、見学をしてしまうと4時に会う約束したイギリス人に会えなくなってしまいます。貸した50ルピーも返してもらわなくてはなりません。
わたしは迷った挙句、ベルール・マット寺院には明日ゆっくりと見学に来ることにして、とにかく港に行くことに。急いでいたので港まで35ルピーも払ってタクシーを奮発。
港に着くと、そこは港で働く大勢の人たちでごった返していました。ものすごい数の労働者と船です。
わたしは彼から教えられた名前の船を探しましたが、そんな船はどこにも見当たりません。人に聞いても誰も知らないということです。わたしはいろいろな人に訊ねながら、港のあちこちを数十分も探しました。しかし、そんな船はどこにもありません。
そして、ようやく気が付きました「…やられた……」。
今思えば、着ているものも汚れていたし、顔の貧相なイギリス人でした。ほんとうのところ、イギリス人かどうかも分かりません。それに、初対面の人にお金を借りるなんてへんです。なぜ見抜けなかったのだろう…。冷静に考えてみれば、インチキ臭いことばかりです。高度な詐欺でも何でもありません。わたしがビールやウイスキーや食べ物に目がくらんだために、こうなっただけのことです。わたしがバカだったのです。インド人にばかり注意していて、イギリス人にだまされるとは…
貸した50ルピーはもちろん、ベルール・マットの往復のタクシー代もパアです。たいへんな額の授業料です。わたしは港でしばらく呆然としてしまいました。

なんとか気持ちを切り替えて、リキシャを拾いホテルに帰ろうとしたのですが、リキシャのおじさんは英語がまったく通じず、「フェアローン・ホテル」と言ってもきょとんとした顔をしています。何回もホテルの名前を言うと、通じたのかどうか分かりませんが、乗れといわんばかりにあごでリキシャのシートを指しました。ほんとうに分かったのかどうか、おじさんの態度に不安がよぎりましたが、ぐずぐずしていると暗くなってきそうです。港からホテルまでどのくらい距離があるのかも分かりません。ここはおじさんに任せるしかありません。
しばらく走ると、おじさんはリキシャを止め、にんまりしてわたしの顔をみてここだと言っています。しかし、ここは「フェアローン・ホテル」なんかではありません。すでに外は薄暗くなってきています。そして、回りを見てわたしは驚きました。道の両側に並んでいるのは、何と言ったら良いのでしょうか、適切な言葉が見つかりませんが、いわゆる「売春宿」だったのです。同じような作りの家が道の両側に何十軒も並んでいます。
明かりが灯った、家具も何もない部屋に、きっとお客を待っているのでしょうか、女の子がずらっと並んで坐っています。その女の子たちを見てさらに驚きました。みんな子どもなのです。どうみても十代にしか見えません。中には小学生か中学生くらいの子もいます。その子どもの顔にはちゃんとお化粧もされています。わたしは恐ろしくなり身体が震えてきました。
お客だと思ったのか、女の子たちはわたしに声をかけてきます。何を言っているのか分かりませんが、想像はつきます。笑いながら話しかけてくる子もいます。なにか冗談を言っているのかも知れません。
わたしは怖くなり、慌ててリキシャのおじさんを睨むと強い調子で「ノー! フェアローン・ホテル! フェアローン・ホテル!」と繰り返しました。おじさんはわたしの激しい物言いに怪訝な顔をしましたが、再びわたしをリキシャに乗せると歩き始めました。
わたしは恐怖とパニックとで、しばらく身体の震えが止まりませんでした。30年経った今でも、あの恐ろしい光景は頭の中にはっきりと残り、消えてくれません。

カルカッタには大きな港があり、大勢の男の人が働いています。娯楽の少ない海の上の生活を長く送らなくてはならない船乗りさんもいることでしょう。あそこはそういう人たちが遊ぶところだったのではないでしょうか。
インドでは貧しい家庭に生まれた子どもたちは、ろくに学校にも行かせてもらえないと聞いたことがあります。男の子ならば幼いころから出稼ぎに出され、そのわずかな給料は雇い主と親への仕送りとでほとんどなくなってしまうといいます。実際、インドを旅行していると、小学生くらいの子どもが昼間学校へも行かず働いている姿を度々目にします。よく見ると、大人よりよく働いています。
しかし、インドでは女の子の働き口などほとんどありません。結局、こういうところに売られてしまうのでしょう。そういうことをしなくてはならない親も辛いと思いますが、親と子が生きていくためには仕方がないということなのでしょうか。もちろん、貧しいインド人のすべてが同じような道を行くわけではありませんが…。
また、こんなところに売られないまでも、小さな子どもが環境の悪いじゅうたん工場やアクセサリー製造工場で、安い給料で朝から晩まで一日中働かされているというドキュメンタリーをテレビで見たこともあります。たしかその番組では、じゅうたんなどを買う人がいるから、子供たちをこき使う悪徳業者がなくならないのだと言っていたように思います。しかし、一方で、そういう工場や悪徳業者がいなければ、子どもたちは明日から生きていけなくなってしまうということも事実です。
最近のわたしのインド旅行は歳とともに質も変わり、あまりそういう辛いことに接することがなくなってきましたが、最初のこのインド旅行では実に多くのことを見たり聞いたり、体験したりしました。

ようやくホテルに着いたときにはすっかり暗くなっていました。いろんなことを経験した一日でした。とても疲れた一日でした…。


11月18日。
朝早くチェック・アウトして、昨日見そこなったベルール・マット寺院へ。ここがラーマクリシュナ・ミッションの総本山です。ここのブランチが世界中にあります。途中まではカルカッタ市内のゴミの中を走りますが、ベルール・マット寺院はカルカッタにあるとは思えないほど、清潔できれいです。独特な形をしたメイン・テンプルがあり、わたしの大好きなヴィヴェーカーナンダのお墓もありました。売店では本や写真を売っていて、わたしはラーマクリシュナやヴィヴェーカーナンダの本と写真を20枚ほど買いました。
この寺院の中はなぜか写真撮影は禁止されているのですが、寺院の人に注意されるまでにすでに数枚撮ってしまっていました。
ニュー・デリー駅前のメイン・バザール(パハール・ガンジ)の奥の左手にブランチがあり、そこも同じようにきれいで静かな雰囲気です。1983年にインドに行ったとき、デリーのブランチでちょうどヴィヴェーカーナンダの「シカゴの宗教者会議出席100年記念」のパネル展示をやっていて、思いがけずにヴィヴェーカーナンダの数々の写真を観、そのうえ写真集を買う機会にめぐまれ、とても感激しました。

次に、ここも観光スポットになっているジャイナ教の寺院に。寺院の天井にも壁にも細かい宝石の飾りが施され、とてもきれいでした。ヒンドゥー教寺院とは違うことが一目で分かります。
ジャイナ教は仏教と同年代に起った古い宗教です。年代だけではなく、活躍した地域も仏教とほぼ同じ北インドです。開祖はマハーヴィーラ(あるいは、ジナ=勝利)、戒律の厳しいことで有名な宗教です。特にアヒンサー(不殺生)が厳格なため、在家信者も農業にはつけません。その結果、商売をしたり、ビジネスマンになったりする人が多く、インドの中では比較的裕福な人が多いようです。しかも、宗教に熱心なので遊びや無駄なことにお金を遣わず、その分をすべて宗教的なことやジャイナ教寺院に寄付したりするようです。
わたしがインドに来る前に、Nさんが照会してくれたインド人のアショク・K・ジェインさんもジャイナ教の宝石商でした。

そして、3時30分発マドラス行きの飛行機に乗るためにカルカッタ空港へ。
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by preman9798 | 2010-10-05 12:45 | Comments(0)

池袋の勉強会

昨日、池袋で行っていた『インドの叡智』を学ぶ勉強会が終了しました。約一年かかりました。
最後はわたしの大好きなシヴァーナンダさんの紹介で終わりましたが、シヴァーナンダさんの話をすると、わたし自身感極まってしまい、目頭が熱くなってしまうことがあります。

授業後、『インドの叡智』が終了したということで、近くのネパール料理店で打ち上げをしました。とても楽しい時間でした。

考えてみますと、わたしが行っている教室や勉強会はどこでも、初めからわたしが教えた生徒たちが中心になっているのですが、この池袋の勉強会の生徒さんたちはそれぞれいろいろな教室やスタジオで学んできた人たちです。それが一つになって勉強できるとは感激です。

そして、ボランティアでお世話係をしてくださっているスタツフの皆さんに感謝感謝です。

10月7日(木)からは、新たに『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』第1章を学んでいきます。素晴らしいテキストもできました。
『バガヴァッド・ギーター』や『ヨーガ・スートラ』はご存知の方も多いと思いますが、わたしたちのいちばん身近なハタ・ヨーガ、その教典である『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』をご一緒に学びませんか。
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by preman9798 | 2010-10-01 08:27 | Comments(0)