長年学んできたヨーガと大好きなインドの話です


by preman9798
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サット・サンガ in 狛江

昨日、狛江の「トリャンバカム・ヨーガ・センター」でサット・サンガがありました。
もう7回目になります。
インドのアーシュラムのサット・サンガでは、そのアーシュラムのグルや聖者など中心的な人物がいて、その人のもとで講義やキールタンが行われます。
しかし、聖者のような方がいなくても、ヨーギーやヨーギニーが一同に集まり、経典や聖典を学び、マントラを唱え、キールタンを歌うことが大切であるといわれています。

昨日はキールタンのほかに、シヴァーナンダさんの書かれた『グル・タットヴァ』という、グルについての本の中から少し読ませていただきました。
これは昔、勉強会の資料として使っていたものです。
この本を読むと、昔のインドにもインチキ・グルやいいビジネス中心のヨーギーがいたことがわかります。

キールタンも以前と比べるとだいぶ浸透してきましたし、魅力を感じてくれる人も増えてきたような気がします。
しかし、もっとみんなが大きな声で一緒に歌えるようになるまでにはまだまだ練習が必要です。
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by preman9798 | 2010-09-26 10:01 | Comments(0)
水曜日はヨーガ・サンガィ八雲教室です。
今日はいつもの「八雲住区センター」とは異なり、「大岡山住区センター」。
ここも広い和室があり、快適な環境です。
八雲教室は30年以上のベテランから、まだヨーガを学び始めてほんの2、3年程の若い生徒まで、いろいろですが、皆さんとても仲の良いクラスです。

夜は代々木UTLでヨーガ・クラス。受付には先日出たばかりの『ヨーガ事典』の見本が飾られていますが、まだ入荷されていないようで、UTLでは買えないようです。アマゾンや楽天などのネットからの購入のようです。
ちょうどクラスが終わったころ、池袋の勉強会の世話役をしてくれているOさんが、テキストを持ってきてくださいました。
10月から始まる『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』の第1章です。きちんと表紙がつけられた、126ページにもわたるとても立派なものです。
9月30日で『インドの叡智』の学習が終わりますので、10月からはこの『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』を使っての講義となります。





わたしの初めてのインド・11

ハリオーム! 成瀬です。
今回はブッダ・ガヤからカルカッタ(現在はコルカタといいます)に向ったときのことです。


●ブッダ・ガヤからカルカッタへ
11月14日。
ラージギルやナーランダに行くつもりでしたが、お腹の調子が悪くなり取り止めに。せっかくのチャンスでしたが、遠出をする自信がありません。油断したつもりはないのですが、インドにちょっと慣れたせいでしょうか、とうとう「洗礼」を受けてしまいました。
仕方がないので「チベッタン・テンプル」の何もない部屋でごろごろしたり、少し外に出たりして過ごしました。何かのお祭りなのでしょうか、お化粧をして着飾った象を象使いが先導して歩いています。そのあとを、ブラスバンドや村人が続いています。

11月15日。
昨夜、薬を飲んだせいか、朝起きたときにはお腹の調子も大分良くなっていました。アジャイがもっと滞在しろと言ってくれましたが、ブッダ・ガヤを出てカルカッタに行くことにしました。アジャイにはいろいろとお世話になったので、彼のお店でお数珠を買うことに。
そして、これから先も着替えが必要ですし、ヨーガをやるときにも便利だと思ったので、民族衣装のクルタとパジャマも買いました。クルタはシャツ、パジャマはステテコを少しゆったりさせたようなズボンです。夜寝るときに着るあのパジャマは、このインドの民族衣装のパジャマに由来しています。インドのパジャマは綿で出来ていてとても涼しそうです。
インドから日本に帰るとき、クルタとパジャマを何着か作り、しばらくの間これを着て教室などでヨーガをしていました。

一般にインドの既製服は、縫い目が雑でほつれてきて、数回洗っただけなのにすぐに着られなくなってしまうことがあります。クルタやパジャマ、あるいは女性のパンジャービー・スーツを買うときは、インドのどこの町にも必ずある布地屋さんで色や素材を選び、そのお店の前でミシンを踏んでいるテーラーのおじさんにオーダー・メイドしてもらいます。
パジャマの場合、ポケットを付けるかどうか、クルタだったら襟をスタンドカラーにするか丸首にするかなどを注文することができます。おじさんは、一応ウエストや胸回りをメジャーで測ってくれたりするのですが、仕上がってきたものは大きすぎたり小さすぎたりして、今までなかなかジャスト・サイズにはめぐり合ったためしがありません。
インドに来て以来、チャイの美味しさにずっと感激していたので、紅茶の葉も買うことにしました。
サーリーも買いました。もちろんわたしが着るわけではありません。いつかそれを上げる人が現れるのを期待してのことです。真っ赤なシルク地に金の刺繍が施してあり、観ているだけでもとてもきれいです。残念ながら、そのサーリーは未だにわたしのタンスの肥やしになったままでいますが…。
その他、お線香もいくつか買いました。お線香は日本のものとは異なり、とても良い香りがします。少し香りが強いので、好き嫌いがあるかも知れませんが、比較的喜ばれるお土産のような気がします。

これらのお土産は荷物になるので、日本に送ることにしました。幸い、アジャイの友だちのアビナスという青年の家がブッダ・ガヤの郵便局なので、すべて手続きをしてくれました。
手紙やハガキを含め、その後インドの各地から何回も本やお香やら衣服やらの荷物を日本に送りましたが、すべて無事に届いていました。また、日本からの手紙もほとんど受け取ることができました。インドに行く前は郵便事情が良くないと聞いていたのですが、わたしの場合、幸運にも郵便物や荷物に関してはなんのトラブルにも遭ったことがありません。もちろん、ブッダ・ガヤから送ったこれらお土産もきちんと届いていました。

ブッダ・ガヤも今日が最後なので、アジャイやアビナスと映画を観に行くことに。インドの町にはどこにも映画館がありますが、実際に中に入って観るのはこれが初めてです。
古い映画館のせいか、お客で満員の館内はあまりきれいとはいえません。というより、映画が始まっているわけでもないのに、明かりをつけてくれず、暗いままなのです。
館内は男性と女性の席が別々なのには驚きました。注文すると、自分の席までチャイを持ってきてくれます。
肝心な映画は、甲高い声の女性の歌と踊りばかりでちっとも面白くありませんでした。インドの人たちはどこが面白いのか、ワーワー、キャーキャーと大騒ぎです。わたしには、映画よりも映画を観ている観客のほうがずっと面白く思えました。途中、主演の男女のキスシーンがシルエットで映されると、大騒ぎはピークに達しました。口笛を吹く人もいます。
ある友人が言うには、あれはインド人の憧れだと言うのです。現実の生活は厳しく、なかなか自由な恋愛も出来ないので映画で解消しているのだと。自分たちの恋愛を映画の主人公たちに投影しているのだと言うのです。なるほどと思いました。

最近はインドの映画を観ていないので分かりませんが、当時はまだきわどいシーンや、女性があまり肌を露出するシーンはタブーで、せいぜいシルエットのキスシーンが限度だったようです。あるいは、思わせぶりに主人公の恋人同士が顔を近づけるところで画面が変わったりします。
当時のインドの人たちが、今の日本のテレビコマーシャルなんか観たら、きっと卒倒してしまうのではないでしょうか。
数年前、仲良くなったインド人ガイドさんが言っていました「初めて日本に行ったとき、若い女性が短いスカートで脚を出しているので、ついじっと見てしまいました。インドでは考えられません。痴漢に間違われそうになってしまいました」と。
とにかく、わたしにとって初めてのインド映画はつまらなく、お客さんを観ていたほうがずっと面白かったというのが正直な感想です。

今日中にブッダ・ガヤを出てカルカッタに行きたかったのですが、すでに寝台車は満席で、指定席も取ることができませんでした。アビナスは、実家でもある郵便局からあちこちに電話をして、指定席が取れないか聞いてくれたのですが、どうしても取れず、結局二等の自由席で行くことに。ベナレスからガヤに来るときにも、二等の自由席では辛い思いをしたので、ほんとうは寝台車に乗りたかったのですが、仕方がありません。
駅にはアジャイとアビナスが見送りに来てくれて、列車が来るまでホームで話をしたりトランプをしたりして時間をつぶしました。
ようやく来た列車は、車内が満員だからなのでしょうか、これ以上人が乗り込まないようにと乗客が内側から鍵をかけて入れてくれません。それをアビナスがものすごい形相で車内の乗客に文句を言っています。ヒンディー語なので何を言っているのか分かりませんが、まるで喧嘩のような様相です。しぶしぶ中にいた乗客が鍵を開け、わたしはようやく車内に入ることができました。最初からこの調子です。この先も嫌なことが起りそうな予感です。

予想通り、ガヤからカルカッタまでは、ベナレスからガヤまでとは比べものにならないほど辛い移動となりました。
車内は蒸し暑く、臭く、足の踏み場もないくらいに混んでいます。床であろうがなんだろうが、この際、直に坐わりこんで休むしかありません。たとえ座席に坐れたとしても、硬い木製ですので熟睡など出来るはずもありません。満員列車の通路に坐って寝ていると、夜トイレに行く人が通るたびに起されます。
あ~あ、何でインドまで来てこんなたいへんな目に会わなくてはならないのだろう…。
それにしても、今思い起こしてもなぜあんなに慌ててカルカッタに向う必要があったのか、分からないのです。ガヤで寝台車や指定席を取ってからでも良かったのに。
しかも、そんな思いをしてまで行ったカルカッタで、またいろいろな目に会うことになります。
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by preman9798 | 2010-09-23 08:38 | Comments(0)

シヴァ神の像

8月31日、インドンから来日されていたスヴァーミー・ヴィシュヴァルーパーナンダジーと川崎さんの「さよならサット・サンガ」を行いました。
そのときに、お二人から大きなシヴァ神の像をいただきました。30センチ以上もあり、重量も相当なものです。
シヴァ神の顔立ちもよく、姿かたちもバランスの良い、とても素晴らしい像です。
インドのお土産さんを回っても、これほど良い像は滅滅多にありません。

昔、初めてインドに行ったときのことなのですが、どうしても仏像がほしくて、わたしはそれを前田行貴先生に見つけてくださるようお願いしました。
インドで生まれた仏教なのに、町で売られているはヒンドゥー教の神様ばかりですし、なかなか気に入った顔の仏像が見つからなかったのです。
前田先生によると、その人に合った仏像が手に入るものです、というお話でした。良いものが手に入らなかったら、縁がなかったと思ってあきらめてください、と言われました。
しかし、帰国間際に前田先生がとても良い顔をした仏像を探してきてくださいました。

もちろん、今でもそのお釈迦様はインドの聖者さんたちの写真に囲まれて大事に祀られています。

そして、先日からは、その隣にはスヴァーミージーにいただいたシヴァ神が祀られています。





わたしの初めてのインド・10

ハリオーム! 成瀬です。
ベナレスを出てブッダ・ガヤに向いました。ブッダ・ガヤはお釈迦様が悟りを開いた仏教の聖地として有名です。


●ベナレスからブッダ・ガヤに
11月12日(土)。
朝、ヴァーラナスィー大学でシタールを聴いたあと、いったんホテルに戻り荷物をまとめ、ベナレスの駅に。ベナレスからガヤまでは鉄道での移動です。二等の自由席なので、インド人ばかりで外国人は一人も見かけません。車内は相変わらず超満員です。
やはりここでも遠慮のない目で見られるのを我慢しなくてはなりませんでした。インド人にとっては、あまり見たことのない顔の東洋人がリュックを背負っているのです。何もすることのない電車の中、好奇心の対象になるのも無理ありません。また、「ネパーリー」「ブータン」「ジャパーニー」というひそひそ話しが聞こえてきます。
しかし、それでなくても狭い座席を、少しずつ詰めてわたしを坐らせてくれました。向かい合った席に坐っている老人が、穴が空くくらい「じぃーっ」とわたしの顔を見ています。瞬きもせず、ニコリともせず見つめています。

ベナレスから何時間かかったのか正確なことは覚えていませんが、お昼過ぎに出た電車がガヤ駅に着いたときには、すでに外はもう真っ暗になっていました。目指すブッダ・ガヤは、このガヤからさらにまたバスやリキシャに乗らなくてはなりません。
わたしは迷いました。今夜はガヤに泊まって、明日の朝早くブッダ・ガヤに行こうか。あるいは、このままブッダ・ガヤまで行ってしまおうか。
まだ行ったことのない町へは、明るいうちに移動しておくというのが大原則ですが、バス・ターミナルの事務所で聞くと、まだブッダ・ガヤ行きの最終バスに間に合うとのことです。わたしは迷った挙句、最終バスに乗ることにしました。
旅行者らしい人は、わたしと同世代の白人の女の子しかいません。彼女はアメリカから来たといっていました。
一緒に最終バスに乗ったインド人たちは、自分が降りるところに来ると、ブリキの天井をドンドンと叩いて車掌や運転手に知らせ、次々と降りていってしまいました。

●とうとうブッダ・ガヤに
ガヤから4、50分走ったでしょうか。やがて、バスは真っ暗闇の中に止まると、運転手が無愛想に「ブッダ・ガヤ」と告げました。運転手はわたしたちを降ろすと、自分の仕事は終わったと言わんばかりに、バスの中の電気を消すとさっさとどこかに行ってしまいました。
インドの田舎です、バス停と言ってもただの原っぱだけなのは分かっています。時計を見ると、なんと夜の11時。辺りは真っ暗で、一歩も歩けません。一歩先に何があるのかまったく見えないのです。段差があるのか、水溜りになっているのか、牛の糞があるのか、一歩先がまったく見えないのです。
わたしとアメリカ人の女の子は、数分間ただじっと立っているしかありませんでした。やはり、夜遅くに知らない土地に来るのは無謀だったのかも知れません。インドの田舎の真っ暗闇は「アナン・ニケータン」で経験しているのに…。いつだって後悔は先に立ってくれません。

しばらくの間呆然と突っ立っていると、先ほどよりは少しばかり眼が利くようになってきました。
すると、突然後ろから「どうしましたか?」という日本語が聞こえてきました。振り返ると、ぼんやりとしか見えないのですが、暗闇の中にインド人らしい人が懐中電灯を手に立っていました。
ブッダ・ガヤだけに「地獄で仏」とはこのことです。どれだけホッとしたか言葉には言い表せません。しかも、驚いたことに日本語なのですから。
わたしは何でインド人が日本語をしゃべるのかという素朴な疑問も忘れ、「暗くてなにも見えないのですが、どこか泊まるところはありませんか」とすがるように聞きました。
そのインド人は上手な日本語で「今日はもうどこも閉まっているので、チベット人のテントに行きましょう」と言うと、わたしたちをそのテントまで案内してくれました。
テントといっても小さな家といっても良いくらいのがっちりとした作りです。翌日になってわかったことですが、そこは小さな食堂兼茶店になっていて、ブッダ・ガヤにいる外人やヒッピーたちの溜まり場だったのです。

わたしを連れてきてくれたインド人が、チベット人の店主となにやら話をしています。日本人とアメリカ人を一晩泊めてやってくれとでも言っているのでしょうか。
チベット人の顔はとても日本人に似ています。それも一昔前の人の良い日本人の顔です。なんだか恥ずかしくなってくるくらいに似ています。わたしがインドで会ったチベット人たちは、みんな素朴で親切で感じの良い人たちばかりでした。
夜、遅かったのでもうお店は閉まっていたと思うのですが、お腹がすいているわたしにチョウメン(焼きそば)とモモ(餃子)を作ってくれました。ここで出してくれるお茶は「ブラック・ティー」というチベットのお茶で、何杯飲んでも無料ということでした。ただ、インドのチャイと違って、漢方薬のような味がしてあまり美味しいとは言えませんでした。

泊まるといっても大きなテント張りの食堂ですから、宿泊のための部屋などはありません。壁にくっついている長い椅子をベッド代わりにしました。布団もないので、ここでも日本から持ってきた寝袋が役に立ちました。しかしその晩は、蚊なのか、他の虫なのか分かりませんが、痒くて痒くてなかなか眠ることができませんでした。
このお店の人なのでしょうか、すでに何人かの人が蚊帳をつった簡素なベッドの中で寝ています。
ちなみに、この親切なチベット人の「臨時テント食堂ホテル」は、何も設備がないとはいえ、一晩たったの1ルピーという安さでした。一泊30円です…。

●ブッダ・ガヤ散策
11月13日。朝早く起きてしまいました。チベット人の子どもがお経を読んでいてうるさいのです。横長の大きくて分厚い経典にはチベット文字で、お経文がびっしりと書かれています。それを大きな声で、しかもものすごい速さで読み上げていきます。もう暗記しているのでしょうか、顔はわたしのほうを見ながらも、少しもつかえることもなく読んでいきます。
昨夜は真っ暗でなにも見えませんでしたが、テント食堂から出ると、すぐ近くにあの「大塔」が建っていました。感激です。

朝早く、昨日このテントに連れてきてくれたインド人が様子を見にやってきました。お互いに自己紹介をしました。彼はアジャイという名前の青年で、年齢はわたしよりも少し若いでしょうか。ブッダ・ガヤで小さなお土産屋をやっているということでした。なんでそんなに上手に日本語ができるのかと聞くと、日本寺で習ったという答えが返ってきました。
ブッダ・ガヤには日本のお寺をはじめ、タイ、ビルマ(ミャンマー)、スリランカ、カンボジアなど世界中の仏教国のお寺があります。しかも各国の建築様式で建てますので、お寺の外観はそれぞれ個性があり、まるで万国博に建つ各国のパビリオンのようです。
アジャイは日本寺で催す日本語の教室か何かで学んだようなのです。しかし、そこで学んだだけでそんなに上手になるものなのかと不思議になるくらい上手です。
日本から仏跡ツアーで大勢の観光客が来ると、必ずお釈迦様が悟りを開かれた聖地ブッダ・ガヤを訪れます。ブッダ・ガヤを訪れるツアー客は、必ずお土産に数珠などを大量に買って帰ります。それで、お土産屋さんのアジャイは日本語を学んだということです。アジャイにとって、日本語は趣味というより、日本人に少しでもお土産をたくさん買ってもらうための手段だったのです。

アジャイのお土産屋は閑なのか、頼んだわけでもないのにわたしをいろいろなところに連れて行ってくれました。
仏伝では、お釈迦様は苦しい修行のみをいくら行なっても無意味であると気づき、それまで仲間と一緒に励んでいた苦行を捨て、ニランジャナー河(尼蓮禅河)で沐浴をされたといいます。そして、近くの村の娘スジャーターの供養する乳粥を食し、身心を穏やかにすると、菩提樹の下で瞑想をしてお悟りを開きました。
わたしはヨーガも好きですが、同じように仏教も大好きです。宗派仏教ではなく、ただ単純にお釈迦様が大好きなのです。

これはインドから帰った後の話になりますが、よく「南無の会」に講演を聞きに行きました。「南無の会」は現代の辻説法と称し、お坊さんや仏教学者が喫茶店などで仏教に関する話をしてくださる集まりです。街中の喫茶店という堅苦しくない雰囲気で、しかもコーヒー代で仏教の話をいろいろと聞けるとても楽しい会でした。この「南無の会」にヨーガ仲間たちとよく行ったものでした。
人気のある先生のときは、お店の外まで人があふれ、ガラスのドア越しに話を聞いていたりします。わたしの大好きな先生は紀野一義先生と金岡秀友先生でした。このお二人の先生にはとても影響を受けました。紀野先生のあのにこやかなお顔は今でもときどき思い出します。金岡先生はお話がとても面白く、先生の授業を受けたいということと、ヨーガを学問的に学びたいという気持ちが募ったことで、インド帰国後数年経ったときに東洋大学のインド哲学科に入りました。

わたし独自の解釈なので、学者やお坊さんに叱られてしまうかも知れませんが、わたし自身は、お釈迦様は偉大なヨーギンだったと思っています。同様にキリスト様も偉大なヨーギンだったと思っています。
さらにわたしの場合、同じ線上にスヴァーミー・シヴァーナンダという聖者を見ています。スヴァーミー・シヴァーナンダの人となりは後日、リシケーシ滞在の手記の中でゆっくりとお話ができると思います。

午前中、アジャイはわたしをお釈迦様が沐浴をされたというニランジャナー河に連れて行ってくれました。しかし、乾季だったせいか、広い砂地の河原の中を流れるニランジャナー河の水位は足首くらいしかなく、とうてい沐浴などできる状態ではありませんでした。それでも、お釈迦様がここで沐浴されたのだと思うと、なんともいえない感動を覚えました。
ほんとうかどうか分かりませんが、お釈迦様に乳粥を供養したというスジャーターの生家の跡というところにも連れて行ってくれました。乳粥というのはまだ食べたことがありませんが、インドにいる間に一度は食べてみたいと思いました。
これで、日本で売っているあの小さな容器に入ったミルクに「スジャーター」という名前が付けられたのか理解できました。スジャーターとミルクは、もともと関係があったのです。

続いて、アジャイが良く知っているというチベットのお寺にも連れて行ってもらいました。そこは小さなお寺で、少し足の悪いチベット人のお坊さんが一人で住んでいて、わたしたちに例の「ブラック・ティー」を出してくれました。
ヒンドゥー教やヨーガのスヴァーミーはオレンジ色の衣を着ていますが、チベットのお坊さんたちはエンジ色の僧衣をまとっています。そのチベット僧は、どうすればこんな顔になれるのだろうと思うほど、穏やかななんともいえない優しい顔をしていました。
帰りは、偶然通りかかった牛車の荷台に乗せてもらいました。歩いたほうが速いと思うくらいのスピードでゆっくりと進みます。カタカタと揺れながら進む牛車の荷台に寝転がると、とてものどかで平和な気分になりました。今までインドに来てから経験した嫌な思いが消えてなくなっていくようでした…。

午後は、ブッダ・ガヤでの宿泊先を探さなくてはなりません。一泊1ルビーのテント食堂は、あくまでチベット人の親切心で泊めてくれたのであって、本来は宿泊施設ではありません。外国人やヒッピーがこれだけいるのだから、どこかに安宿があるはずです。
アジャイが言うには、日本寺にも泊まれるかもしれないけれど高いので「チベッタン・テンプル」にしてはどうかということです。ただ、「チベッタン・テンプル」は安いため、いつも外国人の貧乏旅行者で満員なので、空いているかどうか分からないというのです。
「チベッタン・テンプル」はテント食堂のすぐ近くにありますので、さっそく空室があるかを聞きに行くと、運良く一部屋空いているという返事です。
一泊3ルピー。二階の7号室。部屋の作りは、入口を入るとすぐ左右に木の机があり、その奥にベッドが二つあります。ベッドといっても大きな木の台のようなもので、布団などありません。ここでもまた寝袋が役に立ちました。部屋には一応シャワーが付いていますが、もちろんお湯など出ません。3ルピーでは仕方がありません。突き当たりに窓があり、窓の外は何もない原っぱが広がっているだけです。

荷物を置いてから、大塔(マハーボーディ寺院)、日本寺、中国寺、タイ寺、小さな博物館などを見て廻りました。高さ50メートルを越す大塔は感動的でした。中では、熱心なチベット僧たちが五体投地の礼拝をしています。何千回も何万回も繰り返されているのでしょう、手脚を投げ出すその箇所だけがぴかぴかに光っていました。この大塔は偶像を破壊するイスラーム教かにら守るため、埋めてあったと聞いています。
大塔の近くには、その樹の下でお釈迦様がお悟りを開かれたという菩提樹があります。2500年も前のことですから、今の菩提樹は何代目かになるのでしょう。わたしもヨーガを学んでいる身です。その樹の下で、少しでも坐ってみたかったのですが、柵がしてあって樹に触ることさえ出来ませんでした。
夕食はアジャイの家に招待され、ご馳走になりました。テーブルではなく、床に直に坐り右手で食べる、いわゆるインド・スタイルです。ご飯はあま味がなくボソボソしていて、あまり美味しくありませんでしたが、スパイスの効いた野菜の煮物(サブージー)はまあまあの味でした。そこで生水を飲んだせいか、後で少しお腹の調子が悪くなりました。

「チベッタン・テンプル」は、アジャイが言っていたように白人がたくさん泊まっていて、テント食堂で食事をし、お茶を飲み、おしゃべりするのが日課になっているようです。彼らのように、この穏やかな仏教の聖地にずっといたら、きっと他にどこにも行く気がなくなってしまうだろうと思いました。似たような雰囲気は、インドのいたるところで感じました。貧乏旅行者たちが意味もなく集まっては、一日おしゃべりをしたり、街中をブラブラしているのです。それがインドの良さなのかも知れませんし、それはそれで良いのかも知れませんが、わたしはあまりそういう雰囲気に浸るのが好きではありませんでした。
自分としてはあまり行動的なほうではなく、日本にいるときもどちらかというと活発に外に出て行くというタイプではないと思っていたのですが、このインド旅行ではリシケーシを除いて、ほとんど一箇所に留まることはありませんでした。それは、自分の中のちょっと嬉しい発見でもありました。

「チベッタン・テンプル」のトイレは外にあります。夜中に起きてトイレに行くと、お坊さんたちは外にベッドを出して、蚊帳をつって寝ていました。
庭には花がいっぱい咲いていてとてもきれいです。お隣はスリランカのお寺です。アジャイのお土産屋さんはここを出てすぐ右手にあります。

明日はラージギルやナーランダに行くつもりです。ラージギルは王舎城があったところで、お釈迦様が何度も説法をされた町として有名です。ナーランダは5世紀に作られた仏教大学のあったところですが、その後イスラーム教の人たちに破壊されてしまいました。玄奘三蔵(三蔵法師)が7世紀にインドに行ったときは大勢のお坊さんがここで学んでいたといわれています。
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by preman9798 | 2010-09-18 21:45 | Comments(0)

『ヨーガ事典』発売!

いよいよ『ヨーガ事典』が発売になりました。
アマゾンで予約をしてくれていた人には、今日ちゃんと届いたようです。

生徒たちにはお祝いまでしていただきました。

リシケーシの川崎あき子さんからも、お祝いのメールをいただきました。


ほんとうにありがとうございます。
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by preman9798 | 2010-09-17 23:27 | Comments(0)

嬉しいこと。
今日の午前、雨の中を『ヨーガ事典』が届いた。宅急便さん、ありがとうございました。
部屋の中は、先日の『インドの叡智』の増刷の際にいただいた分もあり、本だらけになってしまいました。
両方とも早く売れるとよいのですが。

大失敗。
『ヨーガ事典』を出せることになったのは、UTLの倉持氏がBAB出版を紹介してくださったおかげです。
それなのに、「終わりに」の挨拶の中でその倉持さんのお名前を倉本さんと間違えてしまいました。
名前と数字だけは絶対に間違えてはいけないと肝に銘じていたはずなのに、一番大切な人の名前を間違えてしまいました。
倉持さん、ほんとうにほんとうにごめんなさい。


『ヨーガ事典』、UTLの受付に並んでいます。

今日、すでに青森のヨーガ・サンガティ教室に30冊を送りました。





わたしの初めてのインド・9

ハリオーム! 成瀬です。
今回もベナレスの続きです。ベナレスではちょっと恐い体験もしましたが、たいへん刺激的で面白い町でした。


●刺激的なベナレスの町
ホテルの部屋に荷物を置くと、さっそくベナレスの町に出てみました。ものすごい人の数です。広い通りから少し奥に入ると、道幅の狭い迷路のような道が続いています。狭い道の両側は同じような店構えのお土産さんやら小さな食堂やらが並んでいて、何回か道を曲がるともう完全に分からなくなってしまいます。
この迷路のような路地を歩いている途中、二度ほど死体を担架のようなものに乗せて担いでいる人たちに出会いました。死体は布で巻かれ、その上に花が飾られていました。遺族らしい人たちが、その後を続いて歩いています。きっと、ガンジス河の死体焼き場まで運んで行くのでしょう。
もう一つのお葬式のほうは、数人の人がトランペットや笛で悲しそうなメロディーを吹きながら列を組んで歩いていました。

回りのお店をのぞきながらぶらぶらと歩いていたら、牛の糞を踏んづけてしまいました。まだ新しいのか、湯気が出ています。しまった、と思いましたが、牛の糞はまったく臭くありませんでした。決して負け惜しみを言っているわけではありません。草食のためか、ほんとうに臭くないのです。インドにはこの牛糞を乾燥させ燃料にするために拾い集める人がいるくらいです。

夕食は、ホテルの近くの中華レストラン「WINFA」に。店内は薄暗く、味のほうは値段のわりにはなかなかの美味でした。
夜、再び賑やかな街中に出てみました。今日は「ディワリ祭」というインドでも最大級のお祭りで、ラクシュミーという幸運の女神をお招きするために、イルミネーションと花火とでとても賑やかです。考えてみたら、偶然とはいえ、古都ベナレスで「ディワリ祭」を迎えられるなんて、とてもラッキーでした。
昼間少し歩いた迷路のような路地を再び歩いてみましたが、昼間とはまた違い、夜は夜で裸電球がぶら下がった夜店の雰囲気がなんともいえません。
インド人がぞろぞろと歩いて行く後を何となく付いていくと、ベナレスのシンボルとも言える「ヴィシュヴァナート・テンプル」の前に出ました。ここはシヴァ神の寺院で、ご神体としてシヴァをシンボライズした金色のリンガ(男根の形をしたもの)が祀ってあるところから「ゴールデン・テンプル」とも呼ばれます。しかし、残念ながらこの寺院はヒンドゥー教徒しか入れませんので、わたしたち外国人は黄金のシヴァ・リンガを拝むことが出来ません。

若いインド人が「マニカルニカー・ガート」に案内すると寄ってきました。マニカルニカー・ガートとは死体焼き場のことで、ヒンドゥー教徒はここで焼いた灰をガンジス河に流し、より良い来世への転生を願うと言われています。観光名所のようにとらえられていますが、ヒンドゥー教徒にとっては神聖なる場所ですし、遺族にとっては身内の死体を焼くところでもあります。見世物ではありませんので、ここでの写真撮影は禁じられています。
そのマニカルニカー・ガートへ連れて行ってくれるというのです。少し興味があったので、その若者の後をついて行くことにしましたが、何回も路地を曲がっていくうちに、だんだんお店も人通りも少なくなってきました。恐くなったので、もう引き返すと言うと、「もうすぐだから」とまた歩き始めます。なんか態度や雰囲気が怪しいし、これ以上行っては危ないと感じたので、勝手に引き返してしまいました。外国人観光客やインドのおのぼりさんが集まるベナレスには、この手のインチキがとても多いのです。わたしも、あのまま若者に付いて行ったら、きっとなにかトラブルに巻き込まれたに違いありません。
数年後、ベナレスを訪れたときは「ゴールデン・テンプル」を見下ろせる場所があるからと声を掛けられ、危うくガイド料を取られそうになったこともありました。
しかし、一難去ってまた一難。怪しい若者から逃げたまでは良かったのですが、今度はホテルに帰る道が分からなくなってしまいました。「ゴールデン・テンプル」まで戻れば、何とかホテルまでの道が分かるような気がするのですが、何回も路地を曲がったので完全な迷子です。

●キールタンとの出会い
迷子になったわたしは、迷路のような路地をただ闇雲に歩き回りました。すると、ある家の窓から、今まで聴いたことのないようなメロディーが聞こえてきました。それを聞いたとたん、わたしは総毛だってその家の前から一歩も足が動かなくなってしまいました。迷子になり、音楽なんか聞いている余裕はないはずなのに、どうしても身体が動かないのです。
失礼だとは思いましたが、開け放たれた窓から部屋の中を覗くと、おじいさんが小さなおもちゃのピアノのようなオルガンのようなものを弾きながら何かを歌っています。おじいさんのすぐそばには小さな孫が坐り、その回りを家族の人たちが囲むようして坐り、歌を歌っていました。
その独特のメロディーや雰囲気に強烈なショックを受けたのです。もちろん、インドの言葉なので、どんな歌詞なのか分かりませんし、おもちゃのようなこの楽器が何と言う名前なのかも知りません。
これが、わたしとキールタンとの出会いでした。後に、シヴァーナンダ・アーシュラムに滞在したときに、そこでまたこの音楽や楽器と出会います。そして、はじめてベナレスで聞いたあの歌をキールタンと言い、おじいさんの弾いていた楽器はハーモニュームという名前であることを知ったのです。シヴァーナンダ・アーシュラムにいる間、デーヴァーナンダさんというスヴァーミーから一所懸命にキールタンを習いました。当然、日本に帰る際、ハーモニュームはわたしの荷物の一つになりました。

部屋の中を覗いているわたしを見ると、家の人が「入って来なさい」と手で合図をしてくれました。しかし、迷子状態のわたしには、一緒にキールタンを楽しむなんていう精神的余裕はありませんでした。キールタンに心を引かれながらも、さらに路地を歩きました。
「ゴールデン・テンプル」までの道を聞こうと思っても、ヒンディー語しか分からない人ばかりです。ようやく親切な老人に「ゴールデン・テンプル」まで連れて行ってもらい、何とかホテルまでの道を思い出しました。

しかし、ホテルの近くまで来ると、なんと今度は子どもが「ハッシッシ! ハッシッシ!」と言って近づいてきました。どう見ても小学生にしか見えません。「グッド・クオリティ・ハッシッシ! ピュア・ハッシッシ!」と言っています。
神々の国インドの古都ベナレスであっても、さすがにハッシッシは違法です。ちなみに、その子どもに値段を聞くと、10グラムで35ルピーと言っていました。わたしにはこの値段が高いのか安いのか分かりませんが…。
ほんとうなにが起きてもおかしくないベナレスです。

●市内観光
初日からいろいろなことがありましたが、まだベナレスの市内観光はしていません。お釈迦様が生まれる以前からある古い町なので、見所はたくさんあるはずです。

翌日(11日)、ホテルでチャーターしたバタバタ(オート・リキシャ)で市内観光をしました。まずは朝早く、「ダシャーシュヴァメード・ガート」に行き沐浴風景を見ました。ここはよくテレビや写真などで観る、ガンジス河にいくつかあるガートの中でも最も有名なガートです。ガートとは沐浴しやすいように、河原から河の中にかけて作られた階段状の施設です。ガンジス河の流れているところでは、ベナレスに限らずこのガートが必ず作られています。
昨日が「ディワリ祭」だったせいでしょうか、ガートではものすごい数の人が沐浴をしています。
わたしも三回目のベナレスで初めて沐浴をしましたが、初めてのこの旅ではさすがに沐浴をする勇気はありませんでした。
昨夜見られなかった「マニカルニカー・ガート」にも連れて行ってもらいました。まだ朝が早かったせいか、死体を焼く現場は見られませんでしたが、そのガートの地面は黒く焦げていました。

それから、寺院の回りにお猿がたくさんいる通称「モンキー・テンプル」やヴァーラーナスィー大学、「サールナート」など、ベナレスの観光スポットを訪れました。
サールナートは、ルンビニー、ブッダ・ガヤ、クシナガラーの四大仏跡の一つで、この地でお釈迦様が初めて説法をされたのだと思うと、ちょっと感傷的になりました。お釈迦様はどういう顔の方で、どういうお声だったのでしょう。サールナートには仏教のお寺があり、その寺院の壁には日本人画家によるお釈迦様の生涯が描かれています。その寺院も回りのお庭もとてもきれいでした。総じて、仏教の遺跡や寺院はヒンドゥーの寺院と比べるとどこも清潔でした。

ドライバーがスピード狂なのか、わたしを乗せたバタバタがクラクションを鳴らしっぱなしで、ものすごいスピードで町の中を走ります。途中、人と接触しても、ドライバーのほうがその人を睨みつけては罵声を浴びせます。日本では考えられません。インドでは、車に乗っている人のほうが「お金持ち=偉い」という感覚があるようです。とにかくインドでは車に気をつけなくてはなりません。道を横断するにも車は止まってなどくれません。気をつけないとほんとうに轢かれてしまいます。

夜はシタールを聴きに行くつもりが、シタールを教えている学校に行ってしまいました。ペルー人とイタリア人がインド人の先生に付いて習っていました。さすがベナレス、世界中からインド音楽を学びに来るのでしょう。日本人の女性もいました。聞けば、ここは学校なので演奏は聞かせてもらえないとのこと。その代わり、朝の8時半からヴァーラーナスィー大学で演奏があるということを教えてくれました。

翌朝、ヴァーラーナスィー大学に行くと、たしかに演奏をしていました。会場や講堂での演奏会というよりは、毎日の祭礼のような雰囲気でした。考えてみれば、朝の8時半から演奏会な開催するはずがありません。すでに周りを取り囲むようにして何人かの人が坐って聴いています。よく見ると、シタールを演奏しているのは昨日のシタールの学校の先生でした。わたしの顔を覚えていてくれて、手招きで隣に坐れと合図してくれました。
インドではよくこのように、ヨーガの先生なども、ポンポンと床を叩くようにして自分の隣に坐れと合図してくれることがあります。それはとても名誉なことなのですが、日本人はそのせっかくのご好意が分からず、へんに遠慮して後ろの方に坐ったりしてしまいます。そういうわたしも、照れくささもあってか、後ろのほうで遠慮して演奏に耳を傾けました。
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by preman9798 | 2010-09-16 20:52 | Comments(0)

タイトルなし

水曜日(15日)はいつもなら朝早く八雲教室に行くのですが、会場である「八雲住区センター」の都合がつかず休講になりました。
水曜日の朝ゆっくりできたのは久しぶりです。
と言って、特別に何かをするわけでもなく、資料をぼんやり見つめている間にお昼になってしまいました。
夜は、代々木UTLのクラス。
UTLの4階の受付には『ヨーガ事典』が見本として置かれています。ここで学ぶ皆さんが関心を持ってくださるとよいのですが…。
この日のクラスは、新しく出る『ヨーガ事典』を手伝ってくれたK.Hさんが参加してくださいました。




わたしの初めてのインド・8

ハリオーム! 成瀬です。
今回はデリーからベナレス(ヴァーラーナスィー、バナーラス)に行ったときに、さまざま体験したことの話です。ベナレスはいろいろな意味でとても刺激的な町でした。


●デリーにて
11月9日(水)。昨日のアーグラー観光の疲れが多少残っていたのか、少し寝坊してしまいました。例によって部屋にシーツを敷き、一時間ほどアーサナ。
朝食はYMCAの中にあるレストランへ。白人が多いせいか、メニューはインドのものではなく洋食がメインです。ほんとうはチャイが飲みたかったのですが、トーストとコーヒーを注文しました。考えてみれば、インドに来て初めてのコーヒーかも知れません。
ここで偶然、一緒にインドに来た仲間の一人に会いました。彼は仲間たちと一緒にラジネーシのアーシュラムに行ったと記憶していたのですが、今はみんなと別れて独りでインドを歩いていると言っていました。

午前中に、国内線の「インディアン・エアラインズ」のオフィスに行き、明日(10日)のベナレス行きのチケットを買いました。今はどうなっているか分かりませんが、当時は外国人が国内線のチケットを買うときは米ドルで支払わなくてはなりませんでした。28ドル、当時のレートだと7000円強。インドの旅は始まったばかり、ちょっと痛い出費です。
午後は博物館に。入場料はたったの25パイサ、日本円で10円もしません。館内にはヴェーダ時代の神々の石像がたくさん飾られていましたが、どうもわたしにはボンベイで観た「プリンス・オブ・ウェールズ博物館」のほうがずっと面白く感じました。確か、カメラは入口で預けなくてはならなかったと記憶しています。

博物館を出て、オールド・デリーのチャンドニー・チョーク通りへ。チャンドニー・チョークに関してはすでにお話しましたが、とてもインド的で面白いところです。広い通りには、車と荷車と屋台とお店、それにも増して人、人、人でごった返して、まともに前に進めないくらいです。
ここには「ラール・キラー」というムガル帝国の王様のお城があり、そのお城に向って真っ直ぐに伸びている広い道がチャンドニー・チョークなのです。
広いチャンドニー・チョークの両側には実にさまざまなお店が並んでいますが、これらは外国人用のお土産店というよりも、インドの人たちの日常品を売っているお店です。ちなみに、その後インドに行くたびに、わたしはここでショールやお香や神様の絵などのお土産を買っていました。
この通りにはヒンドゥー教の寺院・マンディルはもちろん、イスラーム教のお祈りの場・モスク、シク教の寺院・ドヴァーラーなどがありますが、それぞれの信者たちの間での争いのようなものはまったく見られませんでした。

シク教の寺院の入口には鉄砲を持ったガード兵(?)が立っていて、最初はちょっと驚きましたが、寺院の中には誰でも入ることができます。靴やサンダルを脱いだら下足番に預け、水で足を洗ってから中に入ります。
宗教上の戒律なのでしょうか、中に入るときは必ずハンカチやタオルで髪を隠さなくてはなりません。
楽器を使って神やグルを讃える宗教歌を歌うのが、シク教の特徴の一つです。このチャンドニー・チョークにある寺院でもキールタンが行なわれていました。ただ、そのときはまだわたし自身、キールタンという名前もハーモニュームという楽器もまったく知りませんでしたが…。
シク教の寺院など珍しいので、ぜひオールド・デリーに行ったら訪れてみてください。シク教の男の人は必ずきれいな色のターバンを被り、戒律上髭も剃りません。ヒンドゥー教と比べると肉を食べる人が多いのか体格もよく、またインド社会の中でも割合と経済的に裕福な人が多いようです。シク教の聖地が北インドの「アムリト・サル(アムリツァール)」にあるせいでしょぅか、南インドではシク教徒の人をほとんど見かけませんでした。

夕食は、ニューデリーに戻り、「ジャンパト・ホテル」の中の中華レストランに入りました。
今は超高級ホテルなどに行くと日本食レストランがあるようですが、昔のインドにはほとんど日本食レストランはありませんでした。
長い旅行で、どうしてもスパイス料理に飽きて日本食が恋しくなると、よく中華料理店を探しました。インドの各地に華僑がいるからでしょうか、少し大きな町には必ずと言って良いほど、中華料理店があります。日本食そのものではありませんが、焼きそばやチャーハンなど、比較的日本食に近い味が楽しめるからです。
「チョウメン」というのが焼きそばで、チャーハンは「フライド・ライス」といいます。お腹がすいていたわたしは「エッグ・チョウメン」と「ヴェジタブル・フライド・ライス」とサラダを頼みました。要するに卵が入った焼きそばと野菜のチャーハンとサラダです。味はともかく、その量の多さには驚かされました。前田先生や「アーナンダ・ニケータン」を思い出し、残してはもったいないとがんばったのですが、どうしても食べ切れませんでした。
「ジャンパト・ホテル」からYMCAまでは歩いて帰れる距離です。明日はいよいよベナレスですが、夜、少し喉が痛みました。埃だらけの町を歩いたツケが回ってきたのでしょうか、あるいは少しばかりインドに慣れて気のゆるみが出たのでしょうか。

一枚の便箋を使ってヨーガ仲間数人に宛て、手紙を書きました。インドに来る前に、わたしがヨーガを教えていた「現代の寺子屋塾・市ヶ谷校」の生徒たちです。生徒とはいえ、当時20代半ばのわたしにとっては、みんな年齢はわたしよりも上の方たちです。わたしが居ない間は、古い生徒が代講してくれているはずです。きっと、みんな心配してくれていると思います。生徒の中には、わたしがインドに行くと聞いて、いろいろと薬を持たせてくれた看護婦さんもいます。

●デリーからベナレスへ
11月10日(木)、朝5時15分に起きてしまいました。念のため頼んでおいたモーニング・コールの前に起きてしまいました。
YMCAをチェック・アウトし、国内線の空港へ。国際線と国内線とでは空港が異なるので気をつけなくてはいけません。
朝7時発のベナレス行きには、日本人の団体が乗っていました。おそらく、ベナレスやサールナートやブッダ・ガヤなどの仏跡でも巡るツアーなのでしょう。年配の方が多かったので、熱心な仏教の信者さんたちなのかも知れません。わたしは独りでインドを回っていることを話すと、なぜだかおばあさんに「偉いわねぇ」と褒められてしまいました。わたしも何とはなしに少し得意になってしまいました。

デリーからわずか1時間半くらいで着いたベナレスの空港は、何もない原っぱの中にありました。飛行機のタラップを降りると、空港ビルまで原っぱの中を歩いて行かなくてはなりません。
インドのどこの観光地でもそうですが、タクシーやリキシャの運転手は強引な客引きで有名です。特に、ここベナレスやアーグラーなどの世界的観光地は要注意です。
空港ビルともいえないような建物を出ると、タクシーやリキシャのおじさんたちがワーッと寄ってきては市内まで連れて行こうとします。その中の一人がわたしの手からリュックを奪うと、自分のタクシーのほうに連れて行こうとしました。わたしはそのドライバーから慌ててリュックをひったくると、睨みつけてやりました。しかし、そんなことでひるむようなドライバーなど一人もいません。考えてみれば、みんな生きることに必死なのです。
タクシーやバタバタやリキシャのドライバーのほとんどが、車は親方や会社に高い料金を出して借りていて、一所懸命働いてもあまり手元に残らないという話を聞きます。彼らが毎日運転している車は、自分個人の持ち物ではないようなのです。その上、地方から出稼ぎに来ているリキシャ・ワーラー(「リキシャの人」の意味)たちは家族に仕送りをしなくてならないので、寝るときはあの狭いリキシャの座席の上で寝て、少しでも節約するのだと聞きます。
しかも、人の大勢集まる観光地は、その分タクシーやリキシャも多いので競争が激しいのです。遠慮なんかしていては、お客を取ることができないので、どうしても強引な手段になってしまうのでしょう。
インドでは、タクシーに限らずバタバタもリキシャも、車はすべて値段交渉をしなくてはなりません。タクシーにはメーターは付いていますがほとんど使うことはなく、すべて交渉で決めます。初めて行く場所などは距離も分からないので、今交渉しているその料金が高いのか安いのかも分かりません。たくましいタクシー・ドライバーのおじさんたちとの駆引きは、それだけで疲れてしまいます。
日本円に直せばたった数円の値段交渉のために、リキシャのドライバー相手に意地を張り、結局は重たいリュックを背負って、何十分も歩くはめになったこともありました。

●ベナレスでの初日
しつこいタクシーやリキシャたちを無視し、市内のインド政府観光局までバスで行くことにしました。わずか5ルピー。タクシーだったら何倍も取られるところです。観光局で市内マップを貰い、比較的安くて安心なツーリスト・バンガローを紹介してもらいました。
バンガローと言っても日本のキャンプ場にあるような、テントに毛が生えたような山小屋ではありません。インドのバンガローは立派な宿泊施設です。YMCA、ユース・ホステル、ツーリスト・バンガローの三つが、低料金で比較的清潔な、貧乏旅行者向けの宿泊施設ベスト・スリーです。
しかし、せっかく紹介してくれたツーリスト・バンガローには行けませんでした。わたしの乗ったリキシャのおじさんが、あそこはヒッピーばっかりでみんなハッシッシ(大麻の一種)を吸っていると言うのです。インドに慣れると、こんなリキシャのおじさんの言うデマなどに耳を傾けなくなりますが、まだまだ経験不足だったわたしは親切に忠告してくれたのだと思い、ツーリスト・バンガローをあきらめ、おじさんの知っているというホテルに行くことにしました。
考えてみたら、政府系のツーリスト・バンガローなんかでハッシッシなんか吸うわけがないのですが、そのときはまんまとおじさんの術にはまってしまいました。これでおじさんはそのホテルから少しマージンがもらえるのです。
インドを旅行している間は、こういうことの繰り返しでした。でも、こういう経験や失敗を繰り返していくうちに、自然とインドのいろいろなことを覚えていったような気がします。これが最初から情報に頼った旅行や、添乗員さん付きの安全な旅行とは違うところなのだと思います。
自分でレストランを見つけなければ、お腹がすいていても何も食べることができません。自分でホテルを探さなければ、疲れた身体を休めることもできません。だからこそ、30年も経った今でも旅行の細部にわたって覚えているのでしょう。

リキシャのおじさんが連れて行ってくれたのは「アジャイ・ホテル」という、市内の繁華街の中にあるインド式のちょっと汚いホテルでした。部屋は20~65ルピー。65ルピーの部屋はエアコン付きです。すぐ近くに「WINFA」という中華レストランがあります。
ホテルに泊まるときは、必ず部屋を見て、お湯が出るかどうか、トイレの流れ具合はどうかなどをチェックしなくてはなりません。
わたしはちょっと贅沢をして、二階のシャワー・トイレ付きで30ルピーの部屋にしました。30ルピーも払ったのですから、ぬるいけれどちゃんとお湯も出ます。インド式ホテルなので、トイレもインド式、屈んで用を足すいわゆる和式タイプです。通常トイレット・ペーパーのあるところに水道の蛇口と容器があり、水を使って処理します。
デリーで泊まったYMCAには白人が多いせいか、洋式とインド式の二通りのトイレがありましたが、インドでわたしが泊まったホテルのほとんどがこのインド式トイレでした。
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by preman9798 | 2010-09-16 07:54 | Comments(0)
11日(土曜日)は、Y.L.S.の勉強会でした。
現在学んでいるのは『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』の第3章、ムドラーについてです。
アーサナやプラーナーヤーマと異なりたいへん難しく、情報量も多くはありません。
ムドラーの中には誤解を受けるような内容や、実際に行うのは不可能かと思われるテクニックもあります。
しかし、アーサナやプラーナーヤーマだけではなく、ムドラーを含めてのハタ・ヨーガです。
ハタ・ヨーガを学んでいる以上は、少なくともムドラーとはどのようなものなのか、眼を通しておく必要があると思います。

学習が終わった後は、数人の仲間とインド料理店に行きました。決してまずくはないのに、いつも空いているお店です。
『ヨーガ事典』完成のお祝いに加え、わたしの誕生日が数日前であったことなどで、生徒たちにすっかりごちそうになってしまいました。

9月半ばで今年を振り返るには早すぎる気がしますが、長年の希望だった『ヨーガ事典』を上梓することができたり、リシケーシからスヴァーミージーが来てくださったり、とてもよい年でした。
残りの三ヶ月半も、サット・サンガやキールタンと、さらに充実させたいと思っています。

9月25日(第四土)・18:00~・狛江の「トリャンバカム・ヨーガ・センター」でのサット・サンガ、是非いらしてください。






わたしの初めてのインド・7

ハリオーム! 成瀬です。
これからインド観光を兼ねて、アーシュラムを訪ねる旅に出ます。


●ボンベイからデリーへ
朝早く「ラブリー・ホテル」を出ると、お世話になった前田先生とお別れし、サンタクルツ空港から国内線でデリーに飛びました。二時間くらいのフライトだったと思いますが、国内線なので、荷物検査も税関もないので気が楽です。
デリーに着くと、空港に観光客用のホテルやレストランや病院や鉄道駅などが載っている無料の「デリー市内マップ」が置いてありました。デリーは初めてなのでたいへん重宝しましたが、紙の質が悪いのか、地図を何回か広げたり畳んだりしているうちに、折り目のところから切れてバラバラになってしまいました。

デリーはオールド・デリーとニュー・デリーとに分かれていますが、文字通り、オールド・デリーは古いインドの町並みで、イギリスがインドを統治する以前からありました。チャンドニー・チョークという大通りには小さなお店がずらっと並び、人もごった返しています。よく「インドの浅草」「インドの下町」などと言われますが、浅草と違うのは外国人がほとんどいないということです。慣れないと、その雑然とした雰囲気に圧倒されちょっと恐いかもしれませんが、インド庶民の町でとても面白いところです。チャンドニー・チョークから、路地に入るとサリーを売っているお店だけずらっと並んでいるところがあったり、また違う路地を入ると銀細工専門の小さなお店が何軒も並んでいたりします。

反対に、ニュー・デリーはイギリスの統治時代に計画的に作られたきれいな町で、街路樹のある広い通り、政府関係の建物、いくつもの企業の入った高いビル、マンションのようなものもあります。人通りの少ない街路樹の下を歩いていると、リスが前を横切って、隣の街路樹に登っていきました。
また、円形の公園を中心に、放射線状に高級な商店やレストランがお店を連ねているコンノート・プレイスというところもあります。オールド・デリーの下町的な賑わいと比べると、コンノート・プレイスは高級感あふれる銀座といったところでしょうか。
いずれにしても、ボンベイのあの活気と比べると、ニュー・デリーはちょっと整いすぎていて面白さに欠ける、というのが個人的な感想です。

デリーに着くことは着いたのですが、まだどこに泊まるか決めていません。デリーはインドの首都ですので、超高級ホテルから安宿までいろいろとそろっていて、宿泊施設には困りません。
前田先生にYMCAがあると聞いていたので、空港でもらった地図を頼りに探しました。目指すYMCAは、コンノート・プレイスから少し外れてはいますが、とても便利なところにありました。
YMCAやユース・ホステルは価格や清潔度を考えると、あまり金銭的余裕のない旅行者にはたいへん便利な宿泊施設です。ただ、普通のホテルにはないようなルールや規律があるので、窮屈だと感じる人もいるようです。

YMCA(Young Men’s Christian Association)は、キリスト教徒だけでなく誰でも泊まれますが、やはり利用者のほとんどが白人でした。さっそくフロントに行き、部屋は空いているか訊ねました。係員の「空いている」という英語は分かるのですが、なぜか手続きをしてくれません。もう一度、今日泊まれるかと聞くと、「泊まれる」と答えてくれるのに、やはり一向に手続きをしてくれません。
落ち着いて考えれば分かることですが、まだチェック・インの出来る時間ではなかったのです。何しろ外国での初めての宿泊手続きなので、そんな初歩的なことまで分からなかったのです。
ようやく、手続きを済ませると、6階の605号室の鍵をくれました。お湯の出るシャワーとトイレは共同でしたが、とても清潔でした。このデリーのYMCAが、インドに来て初めて自分の力で泊まることができた記念すべきホテルとなりました。

チェック・インを済ませると、外国人観光客のためのツーリスト・オフィスに行き、アーグラーまでの観光を予約しました。日帰りのツアーで120ルピーです。アーグラーはあの有名な「タージ・マハル」のある観光地ですが、デリーからは日帰りで行けるほど近いのです。
ツーリスト・オフィスの帰りに偶然酒屋を見つけ、思わず冷く冷えたビールを買ってしまいました。中瓶サイズで、一本5ルピー(約150円)前後したと思います。日本円に換算したら、たいした価格ではないかもしれませんが、インドではかなり高額です。
インドでは飲酒はあまり歓迎されません。日本のように「居酒屋」や「バー」など、お酒を専門に扱うお店というのはまったくなく、酔っ払いも見かけたことがありません。どうしてもアルコール類を飲みたい人は、大きなレストランやホテル内の「バー」に行くしかありません。「酒屋」もほとんどなく、あったとしても、お店のシャッターを半分閉めたような状態で、こそこそと売っているという印象を受けました。わたしがビールを買ったお店もそうでした。
今もあるのかどうか分かりませんが、当時は「ドライ・デー」という禁酒日が決められていて、その前日はお酒を呑みたい人たちで酒屋が混むのです。

YMCAでアルコールを飲んで良いのかどうかわかりませんので、フロントの前を通るときはショルダー・バッグの中に隠し、自分の部屋でこっそりと飲みました。
そうまでして飲みたいのかと言われてしまうと、返す言葉もありませが…。
インドに初めて着いた数日前は不安と緊張でいっぱいだったのに、おかげさまでだいぶ図々しくなったような気がします。
明日の朝は、アーグラー観光のため、朝早く起きなければなりませんので、フロントに明朝6時に起してくれるようにお願いしました。
久しぶりのビールのせいでしょうか、その日はぐっすりと眠ることが出来ました。

●アーグラー観光
6時にモーニングコールをお願いしていたのに、5時に目が覚めてしまいました。ベッド・シーツを床に敷き、部屋でヨーガを一時間。
ボーイがチャイを持ってきて、100円ライターはないかと聞いてきました。あまりの図々しさに少し腹が立ったので、なんであんたに上げなくてはならないのかと一言文句をいい、部屋から出て行ってもらいました。
インドを回っている間、よくこういう経験をしました。ホテルがたまたまそうだったのかも知れませんが、ホテルの従業員が平気で人の部屋の中に入ってきて出て行かないのです。チップをあげても、なかなか部屋から出て行かず、何かを貰おうとしているのか、話がしたいだけなのか、ただの好奇心からなのかよく分かりませんでした。

YMCAから、通称「バタバタ」というオート・リキシャ(昔の「ダイハツのミゼット」のような三輪自動車といっても、わかりませんよね…)でニュー・デリー駅に。4ルピー。アーグラー観光の出発点です。駅で自分の乗る電車を見つけ、車両の出入り口に貼ってある「紙」を見て自分の名前と座席を確認します。
このアーグラー観光は、インド政府観光局のツーリスト・ツアーで、日本で言えば「はとバス」のようなものです。
朝デリーを発ち、インド自慢の特急列車「タージ・エクスプレス」でアーグラーに行き、そのまますぐにバスに接続してアーグラー市内やタージ・マハルなどを観光し、夜、デリーに帰ってくるというコースです。
朝食は電車の中で、昼食はアーグラーのレストランで摂ります。参加したお客はほとんどがインド人でしたが、賑やかなアメリカ人の団体も混じっていました。いつも、毛むくじゃらの手に缶ビールを持っては大声で話したり笑ったりするので、とてもうるさかったのを覚えています。
もちろん日本人はいません。ツアーにはインド人のガイドさんが付いていて、英語で観光案内やいろいろな説明をしてくれます。
このような「はとバス」観光システムがインドのいたるところにあります。わたしも南インドのマドラスやジャイプールでこのインド版「はとバス」を利用しました。同じ観光地を回るのでも、午前・午後コース、一日コースなどいくつかのコースがあります。料金も安いので、金銭的な余裕のない個人旅行者にとってはたいへん便利です。

朝7時にニュー・デリー駅を出発した「タージ・エクスプレス」はとても快適でしたが、冷房が効きすぎていて寒いくらいでした。ホテルでも電車でもバスでも、インドの冷房は効き過ぎていることが多く、暑すぎる外と寒すぎる車両の中を何回も出入りしているうちに、体調を崩すことがあるので気をつけなくてはなりません。
約三時間でアーグラーに着くと、バスに乗り換えタージ・マハル、アーグラー城などを観光しました。タージ・マハルはとてもきれいでした。ほとんどのインド観光パンフレットのほとんどがタージ・マハルで表紙を飾っています。白大理石で作られたこの壮大なイスラーム建築は、ムガル帝国六代目の王様のシャー・ジャハーンが愛する妻(ムスターズ・マハル)のために作ったお墓なのです。今ではもう中に入れないようですが、昔はだれでも地下(1階?)にある二つ並んだ棺(王と王妃)にお参りできたのです。
繁栄を極めたムガル帝国も、大理石に宝石がちりばめられたこのタージ・マハルを作ったために、さすがの豊富な財力にも影響が出たと言われています。
わたしも今までに三回ほどこのタージ・マハルを観ていますが、インドに行かれた人は、一度は訪れることをお薦めします。その荘厳さに圧倒されると思います。

ツアーでは、ガイドさんがバスを降りるときに「○○時まで休憩します」ということをみんなに伝えてくれます。わたしの場合、自由行動といってもあまり自由には出来ませんでした。同じツアーの中からだれか特徴のある人を見つけ、その人をマークし続けなくてはなりません。もしみんなとはぐれたら大変なことになってしまいます。
昼食を摂った休憩所だったと思います、ツアーのガイドさんがわたしだけに「ビールを飲むか?」と聞いてきました。「飲みたい」と答えると、怪しいお店に連れて行かれ、なぜかガイドさんは自分の分のグラスまで持ってきて、一緒に飲み始めました。もちろん、料金はわたし持ちです。こんなこともインドでは「No Problem」なのでしょう。
さらにお土産屋まで連れて行かれ、しつこく何か買うように言われましたが、特に欲しいものもなかったので何も買いませんでした。ただ、孔雀の羽で作った団扇がとてもきれいで、これならばお土産にもなるし、暑さしのぎになるかと思って買ったのですが、休憩が終わり、バスが走り出してから使おうとしたらないのです。盗まれたのか、自分でどこかに置き忘れたのか未だに分からないのですが、買ったばかりの孔雀の団扇が見当たらないのです。大した値段ではなかったと思いますが、買ったという記憶があるだけで、団扇の使い心地も分からないうちになくなってしまいました。

一日かけてのアーグラー観光も終わり、夜の7時にアーグラー駅を出発し、デリーには10時頃に戻ってきました。駅からYMCAまでは、リキシャで3ルピー。朝は4ルビー取られたのに…。
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by preman9798 | 2010-09-13 19:44 | Comments(0)

池袋の勉強会

今日は、吉祥寺教室の後、池袋勉強会がありました。
昨年の11月から『インドの叡智』を学び始め、今日と次回の二回で終了となります。
そして、最後となる今日と次回はわたしの大好きなシヴァーナンダさんについてです。
どうも、シヴァーナンダさんの話となると感情がこみあげてきてしまい、時には涙さえ滲んでくることがあります。
しかし、池袋の勉強会、わたしの娘のような年代の若くて素敵なヨーギニーたちばかりです(もちろん、池袋だけではありません!)。
そなんなヨーギニーたちの前で涙ぐんでしまっては示しがつきませんし、格好悪いです。
でも今日は何とか無事に恥をかかなくて済んだようです。

次回で『インドの叡智』の学習は終わります。その後は懇親会です。

10月7日からは『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』第1章を学びます。
興味のある方は是非いらしてください。





わたしの初めてのインド・6

ハリオーム! 成瀬です。
少しインドに慣れたわたしは「アナン・ニケータン」を離れ、インドを回るために一旦ボンベイに戻りました。


●再びボンベイへ
11月5日、朝8時、ボンベイに用事があるという前田先生と一緒に「アナン・ニケータン」を出てローナワラに向かいました。途中、先生の知り合いのインド人と偶然出会い、わたしたちは昼ごはんをご馳走になりました。そのときに、「ありがとう」は、ヒンディー語で「ダンニャヴァード」、イスラームの人が話すウルドゥー語で「シュークリア」ということを教わりました。
わたしは得意になって新しく覚えたこの「ダンニャヴァード」を連発しましたが、インド人からこの言葉を聞いたことはほとんどありません。
お店で何か買い物をしても、何かを上げてもほとんどお礼の言葉は聞かれません。ときどき「タンキュー(thank youのことです)」と英語で言われることはありますが、残念ながら「ダンニャヴァード」や「シュークリア」は耳にすることはありませんでした。
ローナワラからボンベイまでの電車は、とても混んでいて蒸し暑く、そのうえトイレが近くにあったせいかとても臭いのです。
同じ都会でも、内陸にあるデリーは木陰に入ると涼しいのですが、ボンベイは海辺にあるので日本の夏と似ていて、とても蒸し暑いのです。
しかも、そのころはまだインドでは冷房はそれほど普及しておらず、日本のように冷房の効いている建物やお店などでちょっと一休み、というわけにはいきません。

インドでは車両によっては網棚がとても大きいものがあり、本来は荷物を置くその網棚の上に人が上がって休むことができます。早い者勝ちですが、わたしも何回かこの特等席を確保したことがありました。ここを確保できるととても快適で、ちょっとした寝台席です。
そうかと思うと、三人掛けの座席にぎゅうぎゅう詰に四人も五人も坐っていたりします。電車の本数が少ないせいか、慢性的に混んでいるようです。その上、なぜかインドの人たちは移動するときはたくさんの荷物を持ち歩くようで、そうでなくても電車やバスの座席は小さめなのに、いつも窮屈な思いをします。

数日前に初めてインドに着いたときは、真夜中だったために分かりませんでしたが、ボンベイはとても大きく活気のあふれた賑やかな町でした。ものすごい人の数と騒音ですが、日本の都会的な賑やかさとは異なり、やたら生活観のある雑踏です。
竹で編んだ鳥かごのようなものをいくつも頭に乗せて運んでいる人がいます。タクシーのドライバーとリキシャのオヤジが大声で怒鳴り合っています。そのそばを、荷物を一杯に積んだ荷車を、裸足でゆっくりと引いて行く老人がいます。そんな騒音と排気ガスと埃の中で、平然と道端で果物を並べて売っている人がいます。

インド国内線の「インディアン・エアラインズ」のオフィスを訪ねましたが、職員は不親切なうえに動作は緩慢で、結局はボンベイ→デリーまでのチケットだけを買うことにしました。その後も、インドで感じの良いサービスを受けたという経験はほとんどありません。
お金がないのに飛行機を使うなど贅沢と思われるかも知れませんが、当時は27歳以下の人は国内線がとても安く利用できたのです。飛行機は、目的によっては電車よりもはるかに速く有効な乗り物だったのです。

●インドで最初に泊まった「ラブリー・ホテル」
とりあえずデリーまでの飛行機のチケットを買ったわたしは、町で夕食をとりました。あの有名なタージ・マハル・ホテルの近くの「アポロ・レストラン」という小さなレストランで食事をしました。ここは前田先生がよく利用されるようで、チキン・ブリアニという鶏肉やナッツのスパイス味の炊き込みご飯がとても美味しかったのを覚えています。
食事の後、先生とわたしはボンベイから電車に乗りサンタ・クルツという町に行きました。一時間弱でしょうか。そこで「ラブリー・ホテル」という、ちょっとへんな勘違いをされそうな妙な名前のホテルに泊まりました。
まず外国人観光客は泊まらないようなランクのホテルですが、「アナン・ニケータン」と比べたらお湯のシャワーが使えるだけでも天国です。前田先生、ごめんなさい。
その後、あちこちとインドを回っているうちに分かってきたことですが、インドではお湯が使えるかどうかでホテルの価値も料金も変わります。当時はまだまだお湯をつかうということは贅沢でした。
しかし、お湯が出るといっても、日本のように十分に使えるわけではありません。小さなヒーターで湧かすためか、使っているうちに水になってしまうことがよくありました。
貧乏旅行者がよく利用する駅前に集中しているような安宿では、シャワーはあってもお湯は出ません。シャワー室の中は薄暗く、下はぬるぬるしています。中には、シャワー付きだといっておきながら、実際は水道とバケツだけという安宿もありました。
ただ、インドは基本的に暑い国なので、日本人ほどお湯やお風呂ということに執着がないようです。彼らはお湯なんかよりもむしろ水を浴びたほうが気持ち良いと感じているのかもしれません。

インドのほとんどの建物がそうであるように、このホテルにも天井には扇風機が取り付けられています。そういえば、小さいころによく行った近所の銭湯にも、このような扇風機が付いていたのを思い出します。
暑くて寝苦しいからと、この扇風機を回したままで寝てしまうと、朝、喉が痛くなっていることがあるので気をつけてくださいと、前田先生に注意されました。

この町は空港の近くにあるため頭上に飛行機が飛ぶと、うるさくて話し声が聞こえないくらいです。また、後で知ったのですが、このサンタ・クルツという町にはシュリー・ヨーゲーンドラという人が「YOGA INSTITUTE」という小さなアーシュラムを開いています。リシケーシなどにあるアーシュラムのような雰囲気ではなく、町中にあるヨーガの研究所、学校、塾といったところでしょうか。「YOGA」という機関誌も出しています。
シュリー・ヨーゲーンドラさんの本は、日本では『ヨガ健康法の科学』(春秋社)というタイトルで売られています。なかなか興味深い本で、わたしもいろいろと参考にさせていただきました。

●インドの町の楽しい夜店
夕方になると、町には裸電球をぶら下げたいろいろな屋台が並び、大勢のインド人が買い物をしたり、屋台で軽食を食べたり、友人とおしゃべりをしたりします。ちょうど、昔の日本の「縁日」を思い出させる光景です。
このインド版「縁日」には、カレー味のジャガイモやシークカバブを鉄板で焼いて売っていたり、インド風天ぷらのパコラを揚げていたり、古本屋が出ていたり、いろいろな日常雑貨も売られています。
そして、これら屋台の合間に、おばあさんがたった5、6個の果物を小さな台の上で売っていたりします。日本では使い捨てのようなビーチ・サンダルを修理する店もあれば、女性の下着を並べているお店もあります。なんと、新聞紙の上に入れ歯を並べて売っている店もあります。これを買う人は一つひとつ口に入れて、サイズや入れ具合を試すのでしょうか…。
インドではどこに行っても、夕方になると、大勢の人で町は活気にあふれるのです。わたしはこのインド版「縁日」が大好きで、よく屋台で軽食をつまんだり、果物を買ったりしたものです。

当時のインドはテレビなどなかったので、インドの人はみんな夕方になると、このように町に出ては映画を観たり情報交換をしたりおしゃべりをして楽しんでいたのでしょう。インドではどんな田舎に行っても村に一つは必ず映画館があります。インドの映画制作数は相当なものだというのもうなずけます。町にはいたるところに映画のポスターが貼られ、ヒットした映画音楽が流れています。
インドの代表的な音楽といえば、伝統的なシタールやタブラなどを使った民俗音楽だと思われがちですが、実際にインドでよく耳にする音楽は圧倒的にこれら映画音楽なのです。そのくらい、インドの巷に、バスの中に、レストランの中に映画音楽が流れています。
日本でもテレビのなかった昔は、どんな町にも必ず二つ三つの映画館があり、チャンバラや洋画が盛んに上映されていました。
小学校の帰り、洋画のポスターに描かれている女優さんの大胆な水着の写真の前を通るときなどは、妙に気持ちが昂ったのを覚えています。

わたしはボンベイで初めてサトウキビ・ジュースというものを飲みました。50パイサ、日本円では15円くらいでしょうか。北インドに比べると、ボンベイを中心にした西インドではこのサトウキビ・ジュースが良く飲まれます。前田先生の話では肝臓にとても良いとのことでした。
サトウキビの茎を、昔の洗濯機の洗濯物を絞るローラーと同じような、二つのローラーの間に差し込み、圧縮してジュースを搾り出すのです。サトウキビの独特の甘さが美味しく、わたしは二杯も飲んでしまいました。しかし、その甘ったるい独特の臭いのせいでしょうか、ハエや蜂が真っ黒になるくらいにたかっています。肝臓に効く前にお腹を下しそうです。
良く見ると、今飲んでいるガラスのコップも、誰かの指紋や指の跡がべったりとついています。ギョッとしてお店のおじさんの顔を見たら、笑いながら「No problem」と言われてしまいました。
この後、旅行中に何回もこの「No problem」を聞くことになります。

●不可触民
11月6日の朝、ホテルに前田先生のお手伝いをしているケダルさんという方が来ました。この近くに住んでいるそうです。ケダルさんは不可触民の家庭に生まれ、ひどい生活を送っていたということでしたが、先生と知り合いヒンドゥー教から仏教に改宗し、今はかつての仲間であった不可触民に仏教を布教しているということです。
近年、インドでは、ヒンドゥー教の最下層の不可触民が、アンベードカル博士や佐々井秀嶺先生の影響で仏教徒に改宗するという社会現象があります。長い間カーストによる差別を受け、虐げられてきた人たちがヒンドゥー教を捨て、仏教やイスラーム教に改宗するというのです。
わたし自身、最初のインドではよく不可触民と思われる人たちを見ました。一般に、汚れるような仕事、嫌われる仕事が彼らの仕事となっていて、何年か経てば出世して上の仕事に就けるということはありません。カーストやジャーティというのは身分だけではなく、その仕事からも抜けられないのです。

安ホテルに泊まっているときでした。いつも掃除をしてくれるオジサンに、もう必要のなくなったひげそり用のカミソリを上げようとして声をかけたら、わたしの眼を見るなり、怒られると勘違いしたのか逃げていってしまったという経験もあります。なんとも言えない悲しい気持ちになりました。誰かに怒られるのではないかと、いつもおどおどしているのです。
また、公衆トイレの中で生活している人を見たこともあります。インドの公衆トイレは、出るものも出なくなってしまうといわれるほど、薄暗く汚く臭く不潔な場合が多いのですが、そのトイレの片隅で粗末な食事をしている家族を見たときはさすがにショックでした。そのお母さんらしき人の胸には、丸裸の子どもが抱かれていました。
最初のインドであちこちを旅行したときは、このような光景に何度も出合いましたが、最近はわたし自身の旅行が変わってきたのか、インドが変わってきたのか、あまりそういう辛い光景を見ることが少なくなりました。
不可触民への差別やさまざまな問題、またインドに仏教を復興させようと活躍されている僧、佐々井秀嶺先生については、山際素男氏が何冊も本を出されていますので、関心のある方はぜひお読みになってください。

ケダルさんは、その不可触民から仏教徒に改宗された人だったのです。朝、わたしたちのところに来たケダルさんは、彼のグルである前田先生とわたしを自分の家の朝食に招待してくれました。住まいは団地のような建物で、家具などない狭い部屋に家族と暮らしていました。ケダルさんの一番下の女の子がとても可愛かったのを覚えています。その女の子が、わたしの首にマリーコールドの花飾りを掛けて歓迎してくれました。肝心な食事のほうは正直言って、あまり美味しくありませんでした。
一般に、わたしたちが日本のインド料理店で食べるような具のたくさん入ったカレーは、インドの一般の家庭ではあまり食べないようです。ほとんどがサブジーと呼ばれる簡単な野菜料理にチャパティやライスがついているくらいです。

●ボンベイ観光
朝食をご馳走になった後、ボンベイから舟で数十分行った沖合にある「エレファンタ島」に観光に行きました。洞窟の中にブラフマー・シヴァ・ヴィシュヌのヒンドゥー教三大神の像があるので有名なところです。たまたま、商社で働いているという日本人二人と出会い、一緒に「エレファンタ島」を観光しました。きっと二人とも優秀なビジネスマンなのかも知れませんが、「エレファンタ島」と彼らの着ている背広はとても場違いな感じがしました。
ボンベイには、凱旋門があり、そばにはヴィヴェーカーナンダの像が立っています。
「タージ・マハル・ホテル」でトイレを借りました。びっくりするくらい大きくてきれいなトイレです。こういうところでは、チップを取られないように、相手が出す布より早く自分のハンカチを出して手を拭いてしまうのがコツです。
一休みしてから、「プリンス・オブ・ウェールズ博物館」に行きました。仏像、ジャイナ教やヒンドゥー教の神像をはじめ、細密画や昔の武器なども飾ってあり、とても面白い博物館でした。
インドにはデリー、カルカッタなどに大きな博物館があり、サルナートやマトゥラーなどの田舎にもそれなりの博物館があります。日本では博物館や美術館などめったに行ったことのないわたしですが、インドの博物館はほんとうにどこも面白く、時間が立つのもあっという間でした。

「エレファンタ島」からホテルまでの帰り道は、イギリスからお下がりの赤い二階建てのバスに乗りました。二階の一番前の特等席に乗り、ボンベイの町を縦断しました。途中、「クロフォード・マーケット」という、小さなお店がたくさん並んでいる商店街のそばを通りました。活気にあふれて面白そうなところです。
夕食もケダルさんの家でご馳走になりました。
最近は、デリーから直接リシケーシに行くことが多く、ボンベイにはしばらく行っていませんが、わたしにとってはたいへん思い出の深い町です。

明日は前田先生とも別れ、いよいよ観光を兼ねてアーシュラムを訪ねる旅に出ます。
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by preman9798 | 2010-09-09 23:05 | Comments(0)

ヨーガ事典

今朝、9時ころでしょうか。『ヨーガ事典』が出版社より送られてきました!
わたしにとって、『インドの叡智』『シヴァーナンダ・ヨーガ』に続く三冊目の本になります。
ほんとうに大勢の人に力をお借りして生まれた本です。
ありがとうございました。
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by preman9798 | 2010-09-09 09:38 | Comments(0)

久しぶりの雨

今日、9月8日はわたしのもっとも尊敬するシヴァーナンダさんのお誕生日です。
オーム ナモー バガヴァテー シヴァーナンダーヤ!

水曜日は八雲教室。いつも朝早く家を出ます。満員電車がいやだからです。坐って楽ちんで行きたいのです。
今日は会場になっている「八雲住区センター」の都合で、いつもの和室ではなく、会議室でのクラスでした。
冬ではないので、床に直接マットを敷くだけでも寒くはありません。
クラスの後は月に一回の『インドの叡智』の勉強会。今日はマントラ・ヨーガのところでした。サンスクリット語の説明から入り、インドの文字、日本の文字、さまざまなマントラを学びました。
『インドの叡智』終了まであと4、5回、ちょうど12月に終わる予定です。

授業が終わって「八雲住区センター」を出たら、すごい雨。

そういえば、川崎さんやスヴァーミージーはもうリシケーシに着いたかなぁ。





わたしの初めてのインド・5

ハリオーム! 成瀬です。
前回に続き、「アナン・ニケータン」の生活をもう少し詳しく紹介します。
初めは、不便な生活に慣れずに辛い思いをしましたが、数日過ごすうちに、インドに着いた当時からの疲れも緊張も徐々に取れてきました。
この「アナン・ニケータン」の生活があったからこそ、その後インド中を回ることが出来たのだと思います。


●アナンタ・ニケータンの食事
「アナン・ニケータン」の食事は、ローティ(小麦粉を溶いて薄く焼いたチャパティと同じ)、野菜サラダ、チャイ程度で、いわゆるカレーはほとんど食べません。ローティにつけるバターやヨーグルトは牛乳を攪拌して自分たちで作ります。
インドでは牛乳屋さんが新鮮な牛乳を定期的に持ってきてくれるのです。食べるものはたしかに質素かも知れませんが、前田先生たちはこうして食事できることをとても感謝しているようでした。
「アナン・ニケータン」の周辺には三度の食事さえ摂れないで、過酷な肉体労働をする人が大勢います。中にはライスやチャパティに、おかずは塩ととても辛い青唐辛子数本だけという人もいて、そういう人たちの平均寿命はとても短いそうです。
周りに食事も満足に摂れない人がいるのですから、米一粒も野菜の一かけらも無駄にはできません。食事の最後はお皿に少し残った食べ残りも指でぬぐって、きれいにします。これには食べ物を残してはもったいないということの他にも、水が貴重なので、食器を洗うのにあまり使えないという現実的な事情もあったのです。

「アナン・ニケータン」だけではなく、インドでは水はたいへん貴重です。小屋の回りには先生自身が掘ったという井戸がいくつかあります。井戸はむやみに掘っても徒労に終わります。そこに育っている植物から判断して水脈のようなものをみつけるのだそうです。固い岩盤を砕き、火薬を使いながら、奥様と二人でたいへん苦労をして作ったと聞きました。そうやって掘った井戸が、小屋の回りに場所を変えて三つほどありました。
わたしが訪れた11月はインドでは乾季だったのですが、「アナン・ニケータン」に着いたその日、突然のにわか雨が降りました。前田先生は瑞兆だといって喜んでくださいました。なんだか、自分が褒められたような気持ちになり、少し嬉しくなりました。

井戸の水面にはインドのアメンボウやゲンゴロウなのでしょうか、小さな虫が浮いたり泳いだりしています。虫が泳いでいる水なんか飲めないと思うかも知れませんが、虫が生息しているというのは飲める水の証拠なのだと教えられました。腐った水では虫も生きていられないのです。
水を汲むときは、柄にロープを結びつけたバケツを井戸の中に放り投げて汲み上げますが、乾季になると水位は低くなり、水も汲めなくなってしまいます。そうなると遠くの泉まで、水を汲みに行かなくてはなりません。頭に壷やバケツなどの容器を乗せて何十分もかけて水を汲みに行くのです。

インドの女性たちは、頭に乗せた水を少しもこぼさず上手に歩きますが、慣れないと、せっかく汲んだ水を歩くたびに頭から浴びてしまうことになってしまいます。水の入った重たいバケツを頭に乗せながら、姿勢をまっすぐにして歩かなくてはなりません。でこぼこ道を歩くのに、足元を見ることも出来ないのです。
そうやって集めた水を石でできた水槽に入れ、大切に使います。岩盤を通って湧いた水なので、ほんとうのインドのミネラル・ウォーターです。
しかも、石の水槽なので気化熱によってとても冷たく冷えています。インドの地層を長い間流れてきた「アナン・ニケータン」の水は、ほんとうに冷たくておいしいミネラル・ウォーターでした。
顔を洗ったり歯を磨いたり食器を洗ったあとの水は、小屋の回りの植物や野菜にかけます。一滴も無駄には出来ません。
インドには、カースト(ヴァルナやジャーティ)と呼ばれる身分制度のようなものがいまだ残っていますが、このカーストの中で不可触民と呼ばれる最下層の人たちは、上位カーストの人たちからこの水を使わせてもらえなかったという歴史があります。暑い国インドで、水を使わせてもらえないというのは生死に関わる問題なのですが、そうやって不可触民の人たちは差別されていたのです。

●アナン・ニケータンのトイレ事情
「アナン・ニケータン」のトイレは小屋の外にあります。地面に直径6~70センチ、深さ7~80センチくらいの穴が掘ってあり、その穴に足を乗せられるくらいの幅の板が二本渡してあります。ご存知の方も多いと思いますが、インドでは用を足した後は紙ではなく水で処理するのが一般的です。そして、最後はシャベルで上から土をかけて終了です。まるで、「アナン・ニケータン」の生活すべてがサバイバル・ゲームのようです。
ちなみに、トイレの回りは、申し訳程度に細い棒切れを立てた囲いがありますが、隙間だらけなので、あってもなくても同じようなものです。
トイレが排泄物で一杯になると、それを掘り返し飼料として使うのだそうです。そういえば、昔の日本も水洗ではなく、汲み取り式のトイレでした。しかし、それを前田先生自身がなさっているということに頭が下がります。

夜、トイレに行くときは回りが真っ暗で何も見えませんので、懐中電灯が必要です。インドの山奥なので、月が出ていない夜などは鼻をつままれても分からないくらいの真っ暗闇です。なにやら獣も出そうな雰囲気です。恐いので、ちょっとくらいの便意ならば我慢してしまいます。
実際、一、二カ月後に「アナン・ニケータン」に戻ってきたわたしは、夜、小屋のすぐ近くでトラのうなるような声を聞き、真っ青になりました。
小用のときは小屋の前に植わっているマンゴーの樹の根本にかけます。前田先生にそうしてくださいと言われたのです。飼料が不足しているので、栄養分になるのだそうです。
残念なことに時期的なこともあり、わたしたちの養分で育てたそのマンゴーは食べることができませんでした。

●アナン・ニケータン周辺
当時、「アナン・ニケータン」では、マンディルを建築中でした。マンディルとは、仏教やヒンドゥー教の「寺院」のことをいい、お祈りをするための部屋、修行者用の小部屋や診療所などからなっています。まだ地ならしの段階でしたが、泥運びや土ならしのようなことを手伝わせてもらいました。あの暑いインドでの日中の肉体労働は堪えます。
地面をならしていると、泥の中から赤黒い小さなサソリが出てきました。これに刺されると、大の大人でも何日間か痛みと熱でうなされると聞きました。あぶねぇ、あぶねぇ。
マンディルの前はとても雄大な景観が広がっています。遠くの正面には山の頂が平面になっている軍艦のような形をした山があります。高さは900メートルくらいあるそうです。

11月4日、正面に見えるこの山に登ることになりました。前田先生は険しい山道を山猿のようにどんどん登っていきます。年齢が半分のわたしでしたが、後について行くのが精一杯でした。山の中ではぐれたらそれこそ大変なことになってしまいます。
大汗をかきながら必死で登った山の頂は、グランドのように平らになっていて、池のようなものもありました。
そして驚いたことに、古くなった大砲がいくつか残されていました。この西インド一帯をマラータといいますが、17~8世紀、イスラームのムガル帝国の大軍と勇敢に戦ったマラータ同盟軍の大砲ということでした。この平らになった山の上からムガル軍に向って発砲したのかも知れません。その後、マラータ地方の征圧に失敗したムガル帝国は、徐々に力が衰えていきます。マラータ同盟の基盤を作った英傑シヴァージーの像が、ローナワラから電車で一時間ほど離れたプーナ(プネー)の駅前に立っています。このように、「アナン・ニケータン」のあるローナワラやプーナは、歴史的な地域でもあるのです。

山に登った帰りに、村の小学校に寄りました。トタンで作られた小さな校舎の中で村の子どもたちが勉強していました。前田先生はその学校の先生たちとも知り合いのようで、授業中だったにもかかわらず、先生も生徒もみんな校舎から出てきてしまい、記念撮影となりました。もしかしたら、子供たちよりも学校の先生のほうが写真を撮ってもらいたかったのかも知れません。何度も写真を送ってくれと言っていました。子どもたちはニコニコして、みんな素朴で可愛い子たちでした。

その日、「アナン・ニケータン」には3時ころに戻ってきました。疲れたけれどとても楽しい一日でした。
夕食後、いつも前田先生からいろいろな話を聞くのですが、それがとてもおもしろく、勉強になります。それはきっと机の上の哲学や書物の中の知識ではなく、先生が体験されてきた今のインドの現実に直結した話だからなのでしょう。

わたしは、これからインド中を旅行したいということを前田先生に話し、どことどこを訪れたら良いのか、アドヴァイスをお願いしました。
先生は1ヶ月でインドを一周するルートと、インドのあちらこちらにいる先生の教え子や、ヨーガ・アーシュラムへの紹介状を書いてくださいました。

先生の考えてくださったルートを参考に、わたしのインドの旅が始まります。「アナン・ニケータン」で前田先生や久保さんたちと過ごすうちに、ボンベイの空港や駅で受けたカルチャー・ショックからも大分立ち直り、インド中を旅行する元気が湧いてきました。
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by preman9798 | 2010-09-08 18:15 | Comments(0)