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長年学んできたヨーガと大好きなインドの話です


by preman9798
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インド日記の再登場

この「インド日記」は、すでに数年前にY.L.S.(ザ・ヨーガ・ライフ・ソサエティ)のMLを通して発信したものです。
ブログにあまり書くことがありませんので、再度この日記を載せることにしました。

現在、わたしのヨーガの先生でもあり友人でもある、スヴァーミー・ヴィシュヴァルーパーナンダが来日しております。
6月にいらしてから、あっという間に三カ月が経ち、もうすぐ帰国してしまいます。
スヴァーミージーに接していますと、インドを懐かしく思い出します。

わたし自身、ここ二年ほどインドに行っておりませんが、せめて日記を読み返すことで、インドの思い出に浸りたいと思っています。
暇な方はぜひお付き合いください。





わたしの初めてのインド・1


ハリオーム! 成瀬です。

これから時々、このブログを通して今までにわたしが体験したインドやヨーガのことを書いてみたいと思います。
インドに初めて行ったのは、33年も昔の1977年のことです。当時を思い出しながら楽しかったこと、困惑したことなどをお話したいと思います。もう、大分昔のことですが、インド滞在中ずっと日記を付けていましたので、今でも日記を読み返すと、そのときのことをはっきりと思い出すことができます。
今回は、インドに行くきっかけになったことや、その準備までを書いてみたいと思います。



●きっかけ
ヨーガを学びはじめて三、四年たったころでしょうか、周りの先輩や仲間たちがインドのツアーに参加しはじめ、彼らの話を聞くに連れわたしもだんだんインドに行ってみたいと思うようになりました。
当時、わたしは秋葉原にある「神田寺」でひらかれていた「現代の寺子屋塾 神田寺校」でヨーガと仰臥禅を学んでいました。ヨーガは、その後わたくしの師となる田原豊道先生、仰臥禅は荒井荒雄先生でした。
わたしのヨーガの原点であるこの「神田寺校」やそのときに習ったヨーガや仰臥禅のことは、またいつかお話ししたいと思っています。
そのころ、田原先生が「現代の寺子屋塾」に佐保田鶴治先生や藤田鳳子先生をお招きになり、わたしも先生方の指導を受け、ヨーガに関するお話も聞く機会がありました。
そのとき、先生方のお話を聞いたわたしはヨーガの奥深さに驚くと同時に、ヨーガ発祥の地インドに行き、自分もぜひそこで本場のヨーガを学びたいという気持ちが日毎に高まっていきました。

もう一つ、インド行きの後押しをしてくれたのが、森本哲郎著『異郷からの手紙』(ダイヤモンド社)という本でした。この本の中に森本氏がリシケーシのシヴァーナンダ・アーシュラムに滞在したときの話が出てくるのですが、それを読むと、自分もアーシュラムに行きたくて居ても立ってもいられないような気持ちになったのを覚えています。
おもしろいことに、その後シヴァーナンダ・アーシュラムに滞在したときに、あるスヴァーミーから森本哲郎氏の名刺を見せていただいたときには、妙な懐かしさを覚えました。

そしてインド行きを決定付けたのは、ヨーガ・ニケータンの創設者スヴァーミー・ヨーゲーシュヴァラーナンダの来日でした。
1976年だったと思います。藤田鳳子先生のご好意で、先生のご自宅で休まれていたスヴァーミージーに会わせていただいたのですが、そのとき一緒に撮っていただいた写真を持って、ヨーガ・ニケータンに滞在させていただこうと考えたのです。
これらの思いが募り、1977年ついにインドに行くことを決心しました。決心なんて大げさと思われるかも知れませんが、その当時、インドに行くということは確かに一大決心だったのです。

ただ、自分の中にも具体的にヨーガの何を学びたいのか、というはっきりとしたものは持っていませんでした。とにかくヨーガの生まれたインドに行ってみたいという漠然とした思いだけだったように思います。
しかし、振り返ってみるとそれがとても良かったようにも思います。はっきりとした目的意識を持ってインドに行くのも有意義に違いありませんが、情報のほとんどない白紙の状態で行くというのも面白いものです。少なくとも、体力と時間が十分にあった当時の自分には、ヨーガ以外にもいろいろな体験が出来、とてもよい勉強になったと思っています。


●準備
このころから日本人も個人旅行で海外に行き初めたように思いますが、当時はまだディスカウント・チケットを売る旅行会社もありませんでしたし、1ドルが260円くらいだったように記憶しています。
わたし自身もまだ若く、外国に行く経済的余裕などなかったくせに、どうせ行くならばパック・ツアーではなく個人旅行で行き、リュックと寝袋で自由にインドを歩きたいという生意気な冒険心のようなものが少なからずありました。
結局、チケットは友人から教えてもらった原宿のマンションの一室にある、ちょっと怪しげな旅行会社(?)から購入しました。
「帰りの予約を取るときは、チケットのこの数字の部分をシールで半分分からないように隠してください」とか、あやしげな説明をされ、とても不安になりましたが、わたしも初めての外国旅行でしたので、そういうものなのかと思っていました。

エジプト航空の日本(当時は羽田空港)⇔ボンベイ(現ムンバイー)間、一年オープンのチケットで、たしか当時の金額で170,000円くらいだったと思います。
今日のように個人旅行ガイドブックもなければインターネットもありませんでしたので、実際にインドに個人旅行をした人に聞いたり、チケットを買った旅行会社の社員に聞いたりして情報を収集しました。銀座にあるインド政府観光局でもらったパンフレットは、高級ホテルやレストランが多く、あまり役に立たなかったように思います。
今日、アジアを貧乏旅行するということが流行っているようですが、当時その類の人はまだまだ少人数で、最初のインド滞在で会った日本人は数えるほどしかいませんでした。

インドに行くことが決まってから、ヨーガ仲間のNさんにインドに行くならば、ぜひ前田行貴という人を訪ねると良いといわれました。前田行貴先生は、ボンベイから鉄道で三時間くらいのところにあるローナワラから、さらにバスで一時間ほど行った山の中で「アナンニケータン」という施設を作り、そこで村人や不可触民たちの教育や治療をされているということでした。
また、日本から来た団体の案内をされるので、インドに行った人たちからお名前だけはよく聞いていたのです。
前田先生に会うようにアドヴァイスしてくれたヨーガ仲間のNさんは、友人のインド人の宝石商を紹介してくれ、先生のいる「アナンニケータン」までの行き方を地図に書いてくれました。
そして、前田先生に持って行ってくださいと、包帯、絆創膏、各種の薬、お醤油などを託されました。正直言って重量があり、すでにリュックも一杯だったのですが、前田先生の奉仕活動のお役に立てればと思い承知しました。
その後、インドに着いたわたしはそれらの荷物を持って前田先生を尋ねることになりますが、前田先生との出会いは、わたしの初めてのインドでの強烈な体験の一つになりました。
前田先生や「アナンニケータン」については、またお話しする機会があると思います。


●初めてのインド旅行
インド行きのチケットを買った後でわかったことなのですが、わたしのチケットはシュリー・バグワン・ラジネーシ(OSHO)のお弟子さんたちが、当時プーナにあったラジネーシのアーシュラムに行くツアーのキャンセル分だったのです。
当然、インドまでは彼らと一緒に行くことになりました。
そのころ日本でもいろんな意味でラジネーシが注目されていたときで、若い人たちを中心に広まりはじめていたのです。
羽田空港に集合したラジネーシのお弟子さんたちはわたしと同世代でしたが、もう何回もインドに行っているようで、中には服装もクルタにパジャマ、足元はサンダルの人もいて、持ち物もあまり多くなく、とても旅慣れているように見えました。
わたしのほうは寝袋を結び付けたリュクサックにスニーカーというスタイルで、これを担いでインドを歩けるのかと不安になるほど重いものでした。リュックの中には殺虫剤やら脱脂綿、セロテープやゴミ袋、折り紙に色鉛筆まで入っていて、今考えるとなんでこんなものまで持って行ったのかと不思議なくらいです。

日本から持ち出せるお金は500米ドル以内ということでしたが、たしか余分のお金をどこかに隠し持って出たような気がします。隠して持って行ったのは、見つかると取り上げられてしまうというまことしやかな話が耳に入ったからです。
旅費や滞在費は自分の資金では足りず、親から借りましたが、とにかく一年オープンのチケットなので、持って行ったお金が無くなったら帰ってこようと考えていました。
インドに行った結果、果たして一年間ギリギリまでいるのか、一週間で嫌になってしまうのか、まったく見当もつきません。
ただ、あまりも短い期間で帰って来ては恰好がつかないぞという見栄のようなものはあったように思います。

羽田空港に向うモノレールの中で、水筒を忘れたことに気づきました。わざわざこの旅行のために買った、お湯を沸かすことも出来るキャンプ用の高価な水筒でした。後の祭りとはこのことです。

こうして1977年11月2日、羽田空港を出発し、ボンベイに向かいました。初めての海外旅行でした。
そういえば、出発の数日前から、緊張のためでしょうか、興奮状態にあったためでしょうか、周りの人とあまり口を利かなくなってしまいました…。

翌11月3日は「文化の日」で、当時、わたしが通っていた「東方学院」院長、中村元先生が文化勲章を授与された日だったと記憶しています。
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by preman9798 | 2010-08-30 08:19 | Comments(0)