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長年学んできたヨーガと大好きなインドの話です


by preman9798
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わたしとヨーガ・9

このころからカルチャー・スクールなどでヨーガのクラスが行われるようになり、雑誌やマスコミも美容・健康効果のあるヨーガを取り上げるようになりました。

そんなある日、T先生が有楽町の朝日講堂で講演をすることになりました。たしか朝日新聞やキリンビールなどの大企業が主催だったと記憶しています。その講演会のお知らせが大きく新聞にも載りました。

講演会なので、T先生はお話だけです。「現代の寺子屋塾」のうち、何人かの生徒が舞台でヨーガの実技を披露することになりました。
わたしもその中の一人に選ばれ、シールシャ・アーサナをすることになりました。
わたしの他にも65歳を超えていたOさん。Oさんは一部上場企業の社長や会長を務めた方ですが、わたしのような若者にもきちんと接してくれる人でした。その後もずっと一緒にヨーガ人生を歩くことになります。わたしだけではなく、みんなから尊敬されていた人でした。
そのOさんは、見事なバッダ・コーナ・アーサナを披露しました。会場の人たちはOさんの年齢を聞いてざわめきました。
せっかくのわたしのシールシャ・アーサナも、65歳を超えたOさんの見事なバッダ・コーナ・アーサナで影が薄くなってしまいました。
他にも筋肉隆々の関内教室のKさんが、マユーラ・アーサナを行ないました。Kさんもとてもユニークな方で、スキンヘッドがトレード・マークでした。長年ご一緒しましたが、Kさんが人を悪く言うのを一度も耳にしたことはありませんでした。

会場となった朝日講堂は何百人という聴衆で満員でした。これから日本でもヨーガがブームになるのを予見させるような盛況です。
たしか、入場者は応募した中から抽選で選ばれたと思います。
その中に、あとで市ヶ谷校に来ることになるSさんやOさんがいました。二人ともわたしと同年輩です。精神世界のことをいろいろと語り合いました。
わたしが初めてインドに行っているとき、Oさんはツアーでインド来てくださり、リシケーシのシヴァーナンダ・アーシュラムで再会しました。そのときのことは、Y.L.S.のML「わたしの初めてのインド・29・30」をお読み下さい。

ヨーガがブームになって来て、あちこちのカルチャー・スクールや文化教室でクラスが設けられましたが、やはりわたしは市ヶ谷校がメインでした。
神田寺校にも指導に行きましたが、ここは同期の女の人と交互に担当していました。
新宿の伊勢丹の裏手の小さなビルでも始まりました。細長いビルで、お茶室なので部屋もそれほど広くありません。
今はもうありませんが、池袋の東武デパートにあった産経学園というカルチャーも担当させていただきました。
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by preman9798 | 2008-11-27 08:32 | Comments(0)

わたしとヨーガ・8

荻窪のヨーガ教室に続いて、やがて横浜や関内の産経学園というカルチャー・スクールでもお手伝いをするようになりました。
カルチャー・スクールは神田寺校や荻窪とは異なり、「現代の寺子屋塾」直属の教室ではありません。場所も駅ビルやデパートの中にあり、とてもおしゃれな環境にありました。
そして、そこで出会った横浜教室のNさん姉妹や関内教室のKさんとは、その先もずっとヨーガ仲間として付き合うことになります。

やがて、「現代の寺子屋塾」に市ヶ谷校ができました。場所は、JR市谷駅から歩いて5、6分のところにある「西式健康会館」という三、四階建ての古いビルでした。
今日では数え切れないほどの健康法が氾濫していますが、この西式健康法は知る人ぞ知る、昔からある日本を代表するといっても決して過言ではない健康法です。
ここ何年も市ヶ谷界隈には行っていませんが、きっと、このビルももうなくなっていることでしょう。当時からエレベーターもクーラーもない古い建物でした。夏は西日が入り、ビニール製の畳は汗でヌルヌルになってしまいます。
そんな決して良い環境とはいえない中で、とても素晴らしいヨーガ生活を送ることができました。

この教室、市ヶ谷校はわたしのヨーガの原点・基盤・根本・母体ともいえるものです。今振り返ると、ここで送ったヨーガ生活が一番の思い出として心に残っています。
たくさんの人と出会いました。たくさんのことを学びました。最初に長期間インドに行ったのも、この教室で教えているときでした。教典を読んだのも、この市ヶ谷校でした。
佐保田先生と初めてお会いしたのも、この市ヶ谷の教室でした。
わたしにとって、いろいろな思い出が詰まっているのが、この市ヶ谷教室でした。
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by preman9798 | 2008-11-24 11:16 | Comments(0)

わたしとヨーガ・7

わたしがT先生に言われて最初に担当させていただいたヨーガ教室は、荻窪から20分ほど歩いた住宅街の中にあるバレエ教室でした。水曜日の朝の教室だったように覚えています。最初の日、T先生が付いてきてくださいました。

生徒さんは4、5人でした。皆さん、近所の主婦の方たちです。お世話役はFさんという方がしてくださいました。ずっと後になって、あのときお世話役をしてくださったFさんがヨーガの本を出されたのを知ったとき、大変驚きました。
先生が皆さんにわたしを紹介してくださいました。わたしにとって、生まれて初めてのヨーガ教室の始まりです。

考えてみたらポーズは10種類くらいしか知りません。しかも体操のようなヨーガです。自分の知っているポーズを全部やっても2~30分で終わってしまいます。
先生はそばにいてくださいますが、何か書類の整理のようなことをしていて助けてくれません。きっとわたしの様子を見ていてくださったのでしょう。
時間はまだ半分以上もありますが、「終わりました」と先生に伝えると、先生は「もう一度同じことをしてきなさい」とおっしゃいました。
わたしはその通りにしました。しかし、生徒さんのだれからも文句は出ません。
なぜならば、当時はだれもヨーガを知らなかったので、そういうものだと思っていたからです。
しかし、それだけではありません。生徒さんが皆さん良い人たちだったということもあります。これはわたしにとって大変な幸運でした。その後の運命を決めたといっても良いほどの幸運でした。
もし、あの最初の教室の生徒さんたちが意地の悪い人たちであったなら、わたしは二度と人前でヨーガをすることはなかったと思います。
20歳を過ぎたばかりの若造の体操のようなヨーガ指導に、みなさん気持ち良かったと言ってくださいました。
こうして、わたしの初舞台は無事(?)に終わりました。ぐったりです。疲れました…。
でも何とも言えない、心地よい疲れでした。

板張りのバレエ教室は、冬でも石油ストーブが一つしかありませんでした。夏はクーラーもありません。そこに何年間も通いました。一日も休まずに通いました。わたしも一所懸命だったのです。辞めるときには生徒の皆さんからとても感謝されました。少し自信になりました。なにをやっても自信の持てなかったわたしが初めて持てた小さな自信です。
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by preman9798 | 2008-11-22 09:43 | Comments(0)

わたしとヨーガ・6

T先生について歩いているうちに、教室を手伝ってくれないかというお話をいただきました。
しかし、わたし自身、まだヨーガを習い始めたばかりで、人に教える自信などありません。

それに、今のわたしをご存知の方は信じられないかもしれませんが、昔からわたしは人の前で話ができなかったのです。ほんとうなのですよ。
小学生のときからずっと通信簿に書かれることは同じでした。もっと積極的に。もっと人前で話を。というものでした(昔は、消極的で恥ずかしがり屋の可愛い少年だったのです。ハイ)。

わたしはとても迷いました。積極的な性格の人ならば喜んで受ける話でも、そのときのわたしにとっては死ぬような覚悟が必要でした。ヨーガは大好きですが、人の前で話すことを考えるとためらってしまいます。

しかし考えてみたら、ヨーガに入るきっかけになった「自律訓練法」を習ったのも自分を変えるためだったはずです。自分の殻を破るのはとても辛いことですが、それをしなければ一生変われません。

自分なりに悩みに悩んだ末、わたしは先生のご厚意を受けさせていただくことにしました。ちょっときざな言い方ですが、これがわたしのヨーガ人生の第一歩になりました。

今は、ヨーガの各団体に「養成コース」のようなものがありますが、まだヨーガが日本に根付いていなかった当時は、ヨーガの先生になるというのは自分の師匠の口添えがあって初めてなれたのです。
あるいは、周りからどうしてもヨーガを教えて下さいと請われて、はじめて教えるようになったのです。
今のように、最初から先生になるための、指導者になるためのシステムというものはまだありませんでした。
そう思うと、今日のように初めからヨーガ・インストラクターを目指して、「養成コース」に通う人たちを見ると、とても不思議な感じがすると同時に、恵まれているのかなと思います。

昔と違い、その気になればヨーガの本もたくさん出ていますし、インターネットで世界中のヨーガ情報が一瞬にして分かります。
昔は、ヨーガの本もあまりありませんでしたので、たとえそれがそんなにレベルの高くない本でも、読むことのできない洋書あっても、ヨーガとタイトルのある本はすべて買っていました。とにかく情報に飢えていたのです。
インド人のヨーガの先生が来たと聞いただけで、それがどんな先生なのかも知らず、講演を聞きに行ったり会いに行ったりしました。

まだ外国旅行が今日のように一般的なものではありませんでした。とくにインドのようなところに行き、ヨーガを学ぶなんていうことはなかなかできませんでした。
しかし、今と比べると不便な時代であったからこそ、熱心になれたのかもしれません。少ない情報を大事にできたのかもしれません。
なんでも一瞬にして分かってしまう便利な時代と一所懸命に情報を求めた不便な時代、どちらが良いのか決められませんね。

そして、まだまだ当時は「ヨーガの先生」という職業が世間では認められていない時代でもありました。
わたし自身、人にヨーガを教えて収入を得るという考えはまったくありませんでした。
逆に言うと、仕事や収入を心配する必要がなかったからこそ、自由にヨーガを学べたのかもしれません。だから、自由にインドに行けたのかもしれません。

ヨーガはその人の生き方そのものだったのです。若かったということもありますが、生き方をビジネスにするということに、とても抵抗があったのです。
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by preman9798 | 2008-11-21 08:07 | Comments(2)

わたしとヨーガ・5

わたしは男性にしては身体が柔らかいほうで、まだヨーガという言葉も知らないとき、いたずらに頭の後ろで両足を組んだり、ふざけてブリッジをしながら歩いたりしていた記憶があります。
神田寺に通っているうちにさらに身体は柔らかくなっていき、そのうち、みんなの前でポーズをやらされるようになりました。
ヨーガが終わった後の気持ちよさもだんだんわかってきました。

わたしのヨーガ人生の中で、このころが一番アーサナをやったかもしれません。朝、暗いうちに起きて三時間くらいはやっていたように思います。
夜は夜で、やはり二、三時間はアーサナに費やしていました。ヨーガをすることが面白くて仕方がありませんでした。
その後、こういうヨーガ中心の生活が二十年以上も続きます。

このころ、二浪して大学進学を半ばあきらめていたわたしは、父の仕事の町工場を手伝っていました。町工場というよりも家内工業です。わたしの生まれ育った板橋区にはこのような家内工業や小さな町工場がたくさんあったのです。わたしも、住まいに隣接してある小さな仕事場の機械油の臭いの中で育ちました。
家で働いていましたので、通勤時間はありません。その分丸ごとヨーガに費やすことができました。これも今思えば大変ラッキーだったと言えます。会社に勤めていたのでは何時間も通勤に割かれたうえに、身体も心も疲れてしまいヨーガどころではなかったかもしれません。

一時間の昼休み、最初の30分でヨーガをしました。そして残りの30分で昼食を摂りました。恰好をつけるわけではありませんが、一分でも多くヨーガをしていたかったのです。
誰に強制されたものでもありません。好きで好きでしょうがなかったのです。
両親も、わたしがヨーガの用事で出かけるときは気持ちよく仕事を休ませてくれました。両親にも感謝しなくてはなりません。

まだブームとは言えないまでも、次第にカルチャースクールなどでヨーガのクラスが始まるようになりました。わたしはT先生について歩き、みんなの前でポーズを披露しました。モデルです(笑)。
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by preman9798 | 2008-11-20 08:37 | Comments(3)

わたしとヨーガ・4

ヨーガの授業がうさぎ跳びやヒンドゥー・スクワットなどで大変だったのに対し、仰臥禅はとても気持ちの良いものでした。シャヴァ・アーサナを想像してください。
仰臥禅のA先生が、仰向けになっているわたしたち一人一人の腹部に手を当てて、腹式呼吸を教えて下さいました。
そして、
息を吐きながら「ひと~」。 息を吸いながら「つ~っ」。
息を吐きながら「ふた~」。 息を吸いながら「つ~っ」。
と数えます。

正直言って、最初に神田寺でヨーガを習った時点では、実はヨーガよりも気持ちの良い仰臥禅のほうがお気に入りでした。
神田寺の教室は毎週行なわれていましたが、熱心に通ったわけではありません。頭の中には、お経や「南無帰依仏~ 」の響きが残っています。辛い正坐にも懲りています。
同じ歳頃の人もいません。ガールフレンドになってくれるような若い女の子もいません。
今日流行りの華やかなヨーガ・スタジオとは大違いです。
おじさんやおばさんたちに囲まれて、お経です。なかなか熱心にはなれませんでした。

でも、縁があったのでしょうか。次第に神田寺に通う間隔が短くなってきました。
みんなは教室が終わった後、先生を囲んで近くの飲み屋さんで一杯飲んで帰るようです。当時のわたしはまだお酒が飲めませんでした。時々、ご一緒させてもらうこともありましたが、みんなが焼き鳥で一杯飲んでいるのを横目に、わたしだけ「野菜炒め定食」や「ハムエッグ定食」を食べていました。
わたしの教室がアフタ・ヨーガが盛んなのは伝統なのかもしれません。
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by preman9798 | 2008-11-18 15:52 | Comments(2)

わたしとヨーガ・3

「現代の寺子屋塾・神田寺校」、広い部屋の床の上に長い絨毯を何枚も敷きつめ、いよいよ始まりです。
周りを見渡すと、生徒はわたしよりも少し年上の男性が数人、中には顔中ヒゲだらけの人もいます。
年配の女性が二三人いたでしょうか。今と違って、若い女性は一人もいませんでした。一風変わった人たちの集まりのようです。それでも十数人はいたでしょうか。
あとから聞いた話では、知っている人たちに声をかけて集まってもらっていたようです。きっと、当時はまだヨーガに興味を持って習いに来てくれる人など少なかったのでしょう。

まず、小さなお経の本が配られました。いやな予感がしてきました。
合掌をして「南無帰依仏~ 南無帰依法~ 南無帰依僧~」と三帰文を唱えます。
続いて、「衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水をはなれて氷なく 衆生のほかに仏なし……… 」。坐禅和讃です。
これを、正坐をして大きな声で読まされるのです。何を言っているのか、どんな意味なのか、まったくわかりません。脚がしびれてきました。膝から下の感覚がなくなっています。
こんなはずじゃなかったのに!
二十歳そこそこだったわたしには、こんな抹香臭いことについていけないというのが正直な感想でした。

最初にヨーガの授業があったのか、仰臥禅のほうが先だったのかもう忘れてしまいましたが、ヨーガの先生のT先生は白髪でした。まだ当時は50歳前だったと思いますが、むかしから老けて見られていたということを後になってお聞きしました。

T先生はいつもにこにことされて大変穏やかな先生でした。そのときは、この先生のもとで20年以上も過ごさせていただくなんて思いもしませんでした。

T先生は、身体にぴったりとしたバレエ用の黒いタイツを着ていました。その後数年間は、このタイツ姿でヨーガを指導されていました。
しばらくしてT先生に付いてあちこちの教室を歩くようになりましたが、いつ「成瀬君もタイツ姿になりなさい」と言われないかびくびくしたものです。
ずっと後日、T先生が冗談めいておっしゃいました。「わたしがタイツ姿をしなくなったとき、大勢の女性が泣いたもんだよ」と。

さて、神田寺でどんなヨーガを習ったかといいますと、たいへん生意気なことを言うようですが、あまり自慢できるようなものではありませんでした。
会場となっている広い部屋の中を、うさぎ跳びをしたりヒンドゥー・スクワットという屈伸運動をしたりしていました。
アーサナも体操に近いもので、今わたしたちが行なっているやり方とはだいぶ違うものでした。
しかし、ごく一部の人を除き、まだヨーガが一般に知られておらず、ほとんど情報もない時代でしたので仕方がありません。

今思えば、胸を張れるようなヨーガではなかったかもしれませんが、わたしは最初にヨーガを習ったのが「現代の寺子屋塾・神田寺校」で良かったと思っています。

最初に教えていただいた先生がT.H先生で大正解だったと思っています。

そして、神田寺に連れて来てくださったI.K先生にもたいへん感謝しています。
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by preman9798 | 2008-11-16 22:17 | Comments(0)

わたしとヨーガ・2

もう35年以上も前の話なので正確なことは忘れてしまいましたが、「現代の寺子屋塾・神田寺校」が行なわれていたのは、火曜日か水曜日の夜だったと思います。
わたしが通い始めたのはたしか9月でした。ちょうどわたしの誕生日の少し前だったので覚えています。
神田寺は秋葉原の電気街の裏手にあるお寺でした。お寺といっても、墓地があるようなお寺ではありません。一階が幼稚園になっている古いけれど立派なビルでした。

後で知ることになりますが、この神田寺は友松圓諦という先生が建てたお寺でした。友松圓諦先生は終戦後、NHKラジオで「法句経(ダンマパダ)」を講義され、一世を風靡された先生だと教えられました。いわゆる原始仏教、根本仏教です。
そのときは知らなかったのですが、図らずもわたしがはじめてヨーガを習ったのが、その友松圓諦先生の由緒あるお寺、神田寺だったのです。

今では、ヨーガをやる前は食べないというのは常識となっていますし、新しい生徒にも注意をしますが、I先生とわたしはお腹が空くといけないからと、近くのお蕎麦に入りお腹いっぱい食べていきました。ヨーガに関して何の知識もなかったのです。

ヨーガを行なう教室は神田寺の二階にありました。床張りの大きな部屋でした。コーラスでもするのでしょうか、部屋の隅にはピアノが置いてあります。
建物はビルですが、やはりお寺です。壁には弥勒菩薩の優しく微笑んだ大きな写真が飾ってありました。

会場に入ると、生徒なのでしょうか、係の人が机の上で会費を集めています。会費は500円だったと記憶しています。
机のはじには、ヨーガの本らしきものが置いてあります。分厚い大きな本です。今思うと、おそらく佐保田鶴治先生の『ヨーガ根本教典』だったような気がします。
ちらっと見ても何が何だか分かりません。写真もほとんど載っていません。こんな字ばっかりのヨーガの本なんか誰が買うのだろうと思いました。
それとは別に、簡単なイラストの出ている本もありました。佐保田先生の『ヨーガのすすめ』(ベースボールマガジン社)だったと思いますが、そのときはまだヨーガがどういうものなのか分からないので、本を買って勉強しようなどとは思いもしませんでした。

会場には先生らしき年配の方が二三人いらっしゃいました。わたしにはいったい誰がヨーガの先生なのか分かりません。
I先生が紹介してくださったのが、ヨーガを担当するT.H先生と、仰臥禅を担当するA.A
という先生でした。
実は、当時の「現代の寺子屋塾・神田寺校」はヨーガだけではなく、ヨーガと仰臥禅の二本立てだったのです。
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by preman9798 | 2008-11-15 09:30 | Comments(2)

わたしとヨーガ・1

ときどき、生徒さんからヨーガを始めたきっかけを聞かれることがあります。
そして、聞かれるたびに話をしてきましたが、ここでもう一度わたし自身、当時を振り返るつもりで書いてみたいと思います。
ただ、わたしのブログはよく長すぎるといわれますので、何回かに分けて書いてみたいと思います。

ヨーガを始める前、わたしは「自律訓練法」というリラックス法を習っていました。「自律訓練法」はドイツのシュルツという博士が考案したもので、椅子などに楽な姿勢で坐り、自己暗示をかけていき身体やと心をリラックスさせる方法です。
今、思うとヨーガ・ニドラーと大変似ている方法ですが、事実シュルツ博士はヨーガからヒントを得たとも言われています。

なぜ、わたしが「自律訓練法」を習っていたかといいますと、恥ずかしい話、わたしは大学受験に二年続けて失敗してしまい、身体も心もボロボロになり相当落ち込んでいたのです。今でいえばネクラ人間、対人恐怖症や不安神経症のようなものだったかもしれません。
わたしはそのような自分の性格が嫌で嫌で、どうしても直さなくてはならないと感じていましたが、20歳では具体的にどうしてよいか分かりません。コンピューターもインターネットもない時代です。情報はほとんどありません。
いろいろな宗教書も読みましたが、何かピンと来ません。
そんなある日、「自律訓練法」という方法があることを知りました。とても科学的で、へんな宗教とも無縁なようです。
そして、わたしは赤羽にある小さなマンションの一室に通い始めました。I.K先生という、とても良い先生でした。
わたしとヨーガとを結び付けてくださった大恩のある先生です。

ある日、「自律訓練法」を教えてくださっていたI先生から、「こんどわたしの知り合いでT.Hという先生がインドのヨーガ(ヨガと言っていましたが)というのを始めるので、成瀬君も一緒に行かないか」とお誘いを受けました。

当時、ヨガと言えばテレビの変人奇人のコーナーに出てくるような、見世物的なものでしかありませんでした。事実、わたし自身ヨーガと聞いたとき、手足をグニャグニャ曲げて小さくなったり、何時間も針の上に坐るようなものを想像しました。
しかも、場所は神田寺というお寺だそうです。寂しい夜のお寺で、わけのわからない修行をさせられている光景がわたしの頭の中に浮かびました。
しかし、もう後戻りはできません。わたしはI先生の車に乗せられ、神田寺に向かいました。
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by preman9798 | 2008-11-14 13:07 | Comments(2)

ガッカリ…

ほんの数日前、操作を間違えて、携帯電話の受信メッセージをすべて消してしまいました。中には写真を送ってくださった人もいたのに、全部消えてなくなってしまいました。

9月に突然パソコンが壊れ、急きょ新しいパソコンを買ったのですが、データを入れ変えてもらう際に、お店の人に写真のことを伝えるのを忘れてしまいました。
そして、デジタルカメラで撮った数年間の写真がすべてなくなってしまいました。「蔵衛門」という写真ソフトに入れていたのですが、それがすべてなくなってしまったのです。
思い出の詰まった大事なインドの写真も、姪たちの成人式のときに着た着物の写真も、家族で行った温泉の写真も、教室で生徒たちと一緒に撮った写真も、何もかもです。
あまり衝撃が大きいせいか、呆然としてショックもありません。まるで、悪い夢を見ているようです。

新しいパソコンはウインドウズ・ヴィスタというソフトだそうです。メールの画面も以前のXPとは少し違います。一所懸命に慣れようと思って操作していたら、それまでのメールをすべて削除してしまいました。最近受信した新しいメールだけが残りました。
昔もらったメールや今は、もうお付き合いのない懐かしい人のメールがすべて消えてなくなってしまいました。

携帯のメールもパソコンのメールもインドの大切な写真も、みんな消えてなくなってしまいまし
た…。

そういえば、今年はインドにも行けなかったし…。
いったいわたしがどんな悪いことをしたというのだろうか!
そりゃあ、カラオケがうまいなんて自慢したかもしれないけれど、これはほんとのことだもん。
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by preman9798 | 2008-11-13 19:08 | Comments(6)