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長年学んできたヨーガと大好きなインドの話です


by preman9798
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勉強会の報告

13日・水曜日は、八雲教室の勉強会。『インドの叡智』第3部、インドがイスラーム教やキリスト教と出会い、宗教的にも大きな刺激を受けた時代。そして、グルのところを学びました。グルはわたしの大好きな内容です。
次回は、具体的にラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダなどの聖者たちの紹介です。
八雲教室の勉強会も、あと3、4回で修了する予定です。

18日・月曜日は、代々木UTLで『インドの叡智』第2部の勉強会がありました。
アシュターンガ・ヨーガのヤマ、ニヤマのところです。
とても面白いところですので、生徒さんたちも興味を持ってくださったと思います。
次回は、アシュターンガ・ヨーガの残り、アーサナ、プラーナーヤーマ、プラティアーハーラ、ダーラナー、ディヤーナ、サマーディの説明です。
そのなかでも、サマーディは詳しく学びたいと思います。

21日・今日は19:30より池袋で『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』の2回目の授業です。
だんだん面白くなってくると思います。
まだ始まったばかりですので、興味のある方はぜひいらしてください。

池袋の勉強会でお世話をしてくれているOさんが今日からインド旅行。
北インドを中心に回るようで、もちろん、リシケーシにも行くということです。
からかい半分で、周りの人から散々インドの注意点や危険を聞かされたようです。
初めてのインド、帰って来てからのお土産話が楽しみです。






わたしの初めてのインド・14

マドラスからスリランカへ。スリランカ(以前は、セイロンと呼ばれていました)はインドに近いとはいえ外国です。また、宗教もヒンドゥー教ではなく、仏教国です。インドの人たちと比べると、とても穏やかなような気がしました。
スリランカでは、インドと違ってそれほど大きなトラブルにも会わず、ただ観光だけに終始しました。


●マドラスからスリランカへ
11月22日。
朝早く起きてヨーガ。12時のチェック・アウトまで時間がありますが、ヨーガ道場を探して訪れるほどの余裕はありません。なんだか中途半端に時間を過ごすことになってしまいました。
バスでマドラスのエア・ポートまで。スリランカは外国なので近いとはいえ、思った以上に手続きにとまどりました。

マドラスからスリランカのバンダラナイケ空港までは1時間と少しのフライトでした。スリランカの税関ではいろいろと聞かれ、結局、電池計算機やカセット・レコーダーなどを申告することになりました。今では百円ショップでも売っているような電池計算機を申告するなんて信じられないと思いますが、当時はまだ貴重品でとても珍しがられたのです。なにしろ、インドでは大きなお店で買い物をしても、飛行機の切符を買うときでさえも、紙に書いたり暗算で計算していたりたりしていた時代です。この薄くて小さい電池計算機は当時のインドではとても貴重品であり、みんなから羨ましがられました。
税関では計算機とカセットを口頭で申告した以外は、特にバッグの中を開けて持ち物を調べるということはありませんでした。
税関を出た後は、米ドルからセイロン・ルピーに両替をしなくてはなりません。空港の銀行で50ドルほど両替をしました。1セイロン・ルピー≒17円。
セイロンとはスリランカの昔の名前ですが、未だにセイロン・カレーやセイロン紅茶など、セイロンという名前が使われています。
インドの通貨単位はルピーとパイサでしたが、スリランカの通貨単位はセイロン・ルピーとセントです。あまりはっきりと覚えていませんが、外貨獲得のためでしょうか、たしかドルからセイロン・ルピーに両替すると、レートが良かったように記憶しています。

スリランカはたいへん親日的な国だと聞いていました。南方上座部仏教とはいえ、同じ仏教国ということもあるのでしょうか。第二次大戦が終わり、サンフランシスコの講和条約で勝利国が敗戦国日本に対し、いろいろな賠償や条件を突きつける中、スリランカの代表は「恨みは恨みによってはなくならない。恨みは慈愛によってのみなくなる」というブッダの言葉を引用して、日本に何も賠償を求めなかったといいます。戦争に負け、世界中から袋叩きにあっても仕方がなかった日本に、スリランカ代表のこの言葉はまさしく仏さまの言葉だったのではないでしょうか。

空港からはバスでスリランカの首都であるコロンボ市内へ(現在は、スリジャヤワルダナプラコッテ)。1時間20分くらい。スリランカは仏教国ですが、ちょっと見ただけではそこに住んでいる人たちの顔立ちも習慣も、南インドとあまり変わらないように見えました。
ほんとうは、すぐに海辺の町ネゴンボというところに行きたかったのですが、今日はコロンボのYMCAで一泊することに。
コロンボのYMCAはデリーのそれとは異なり、とても大きくて古い、イギリス風の建物でした。天井は高く、一階のロビーから二階にかけては映画の中に出てくるような大きな階段があり、踊り場には大きなキリストの絵が飾ってありました。ビリヤードやチェスの台、図書館、レストランもあります。トイレとシャワーは共同で、建物が古いせいでしょうか、あまりきれいとはいえませんでした。宿泊代は30セイロン・ルピーと安いのですが、食事は付いていません。
夜は思い切って、近くにあった大きなホテルのレストランへ。セイロン・カレーはインドのカレーとはまた微妙に異なり、あっさりとしてとても美味しいものでした。でもちょっと贅沢をし過ぎてしまい、50セイロン・ルピー(約850円)も取られてしまいました。
部屋に戻り、インドを出るときに免税店で買っておいたウイスキー「ホワイト・ホース」を飲みました。

11月23日。
朝食はYMCA内のレストランで、トースト、オムレツ、バナナ、コーヒー。インドでもスリランカでも、ホテルの朝食はだいたい同じようなメニューです。朝食後、コロンボ市内の散歩に。スリランカは南国なので、見たこともない果物をたくさん売っていますが、何と言ってもパイナップルがとても美味しかったのを覚えています。50セント、10円もしません。バザールで偶然飲んだ、名前が分からない赤いジュースがとても美味しかったのですが、とうとう名前を聞きそびれてしまいました。町を歩いていると暑いので、どうしても果物や飲み物を買い食いしてしまいます。そのおかげで、日本で見たこともないような珍しい果物やジュースをたくさん飲食することができました。

午後、バスでネゴンボへ移動。スリランカにはあまり鉄道は通っていませんが、その代わり路線バスがたいへん発達していて庶民の足となっています。しかし、どこに行くにもバスは満員で、バス停にはいつでも長い行列ができています。大きなリュックサックを持って満員バスに乗るので、わたしのほうもたいへんでしたが、地元の人たちにとってもさぞかし迷惑だったことでしょう。
ネゴンボ行きのバスもそうでした。長い行列ができています。やはり、インドと同じ、ジロジロと見られます。わたしはバスの運転手に行き先を確認するのと同時に、日本からのツーリストであるということを言いました。すると、運転手はスリランカの人たちがずっと並んでいるのに、わたしを優先的に乗せてくれたのです。申し訳ない気持ちになったと同時に、これからはこの手を使おうと心に決めました。
ネゴンボにはタクシーがないのか? それらしき乗り物で、「シルバーサンド・ホテル」というホテルに。海のすぐ近くにあるこじんまりした清潔なホテルで、宿泊しているのはヨーロッパ人らしきカップルが三組だけでした。部屋から海が見え、波の音を聞きながら寝ます。ただ、波が荒く、泳ぐことができなかったのが残念でした。

11月24日。
せっかく海の近くのホテルに泊まったのですから、朝、ネゴンボの海辺を少し散歩しました。ここのビーチは岩場ではなく、きれいな砂浜が長く続いています。
朝食は、コンチネンタル・スタイルとか言うようで、どこでもトーストにコーヒーやジャムやオムレツと決まったメニューです。これらに、たまにオレンジジュースが付くくらいです。大きなホテルでは朝からビュッフェ・スタイルのところもあるようですが、わたしが泊まるレベルのホテルの朝食は、判を押したように同じメニューでした。
一度、首都コロンボに戻り、キャンディ行きの切符を買うつもりでしたが、ものすごく混んでいるために急遽取り止め、ヒッカドワという海辺の町に行くことに。ヒッカドワも日本にいるときにパンフレットを見て、ぜひ行ってみたいと思っていたところです。パンフレットには、サンゴ礁の海と白いビーチが続き、ヨーロッパ人らしい女性がビキニでくつろいでいる写真が写っていました。
インドと異なり、スリランカについてはほとんど知識がありませんでした。行き当たりばったりの観光旅行です。

夕方、確かにヒッカドワ行きのバスに乗ったのですが、なぜか途中でバスが止まってしまい、乗客がみんな降りてしまいました。外はすでに暗くなっていたうえに、雨が降っていてとても心細くなりました。何がなんだか分からないまま、わたしも他の乗客に続いて隣に止まっていたバスに乗ったのですが、それが間違いでした。途中、不安になったわたしは、このバスはヒッカドワに行くのかと訪ねたところ、ヒッカドワには行かないということです。
なぜ、乗り換えるときに確認しておかなかったのだろうと後悔しましたが、今更言っても仕方がありません。急いでバスを降り、雨の降る夜の中を、ヒッカドワ行きのバスが来るのを待ちました。今自分がどこにいるのかまったく見当が付きません。バスもタクシーも、自動車らしきものはほとんど通りません。
日本で見た、あのパンフレットの写真につられてヒッカドワを目指したことを後悔しました。いや、確認もしないでバスを乗り換えたことがいけなかったのでしょう。そのうちに、心細さからでしょうか、何で自分ばかりがこんなトラブルばっかり起るのかと、やたらと腹が立ってきました。そして、数十分後、ようやくヒッカドワ行きのバスが来ました。そして、ヒッカドワに着いたのは夜の11時ころでした。一人旅行の原則を破り、夜、知らない町に着いたのはインドのブッダガヤ以来です。あの時はもう二度と同じ過ちは繰り返さないと誓ったはずなのに、学習できていませんでした。まったく、ブッダガヤのときと同じ、周りは真っ暗で、右も左も分かりません。あの時は偶然、アジャイという青年が声をかけてくれて助かりましたが、ここでは最悪の場合、どこか屋根のあるところを見つけて野宿をするしかありません。

しかし、ここでも信じられないことが起りました。馬に乗ったおまわりさんが二人、声を掛けてくれたのです。ブッダガヤのときとまったく同じです。そのうちの一人のおまわりさんが、近くの安ホテルまで案内してくれたのです。ホテルはそこからわずか歩いて一分くらいのところにありました。このときばかりは、宿泊料金も部屋が清潔かどうかも考えませんでした。とにかく野宿を免れたのですから。そのホテルは「ビーチビュー」というたった4部屋しかない小さなホテルで、わたしの部屋は3号室ということでした。外は暗くて分かりませんが、波の音が聞こえます。「ビーチビュー」という名前の通り、きっと海が近いのでしょう。

荷物を置いてほっとすると、今度はやたらとお腹がすいてきました。夕方からほとんど何も食べていません。しかし、小さなホテルなのでレストランなどは付いていそうもありません。すると、普段着に着替えた先ほどのおまわりさんがやってきて、このホテルで良いかと聞いてきました。先ほどは暗くて顔もよく分かりませんでしたが、わたしと同年代のまだ若いおまわりさんです。わたしは彼の親切にお礼を言い、ついでにお腹がすいていることを伝えました。もう夜も遅かったのですが、彼は自分のよく行くお店というところに連れて行ってくれました。観光客用ではなく地元の人が通うような小さなレストランでした。
米の粉を蒸かした白いお饅頭のようなものの上に、卵が乗っている食べ物でした。名前も分かりません。わたしにとって初めてのスリランカ家庭料理でした。味が薄くてあまり美味しくなかったように覚えていますが、お腹が減っていたのと、彼の親切さに心も胸もいっぱいになりました。

また、見ず知らずの人に助けられました。わたしだったら、日本で、困っている外国人に出会ったとき、これほど親切にしてあげられるか、まったく自信がありません…。
数時間前までは野宿を覚悟していたのに、その夜は「ビーチビュー・ホテル」の3号室でホワイト・ホースを飲みながら、波の音を聞き、ゆっくりと休みました。
これはずっと後になってのことですが、わたしたちの人生で起ることすべてに何らかの意味があると学びました。人生で経験するすべてのことは、偶然ではなく必然なのだと。
わたしは、1977年のこの最初のインド旅行で何を経験し、何を学ばなくてはならなかったのでしょうか。何を経験し、何を学ぶためにインドやスリランカに行ったのでしょうか。
気障なことを言うようですが、今思うと、この旅行はなにか大きな力が働いていて、大きな力に助けられていたような気がしています。今こうしてヨーガを学び続けていられているのも、このインド旅行が大きな要員の一つになっていることは確かです。
30年前のこのインド旅行の手記を書いていて、ふと、このことを考えさせられました。
by preman9798 | 2010-10-21 10:45